tag:blogger.com,1999:blog-199115802024-03-08T03:39:33.603-08:00通常日記OKA-COMPLEX!流転の日記OKA-COMPLEX!です。もろもろのどうでもいいことを当座はここに書いていきます。一部他所からそのまま転載してます。
旧日記サイトへのリンクはこちらとか>
http://okab.web.infoseek.co.jp/Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/05928427561611033030noreply@blogger.comBlogger43125tag:blogger.com,1999:blog-19911580.post-1149740612501980842006-06-07T21:13:00.000-07:002006-06-07T21:23:32.513-07:00弱い握手滅多に握手などしない。<br /><br />ここ1年で恐らく3,4回ほどしかしなかったろう。<br /><br />その中に、弱い握手のかたが何人かいて、<br /><br />その身を案じたりもしていた。<br /><br /><br />うまく言葉が見つからない。<br /><br /><br />しかし音はあくまでアグレッシブで、ひたすら求道的なまでに強く、揺さぶるように、囁くようにひびき、<br /><br />その音があの弱い手から紡ぎだされていたその、余程の気力と、<br /><br />意思と、<br /><br /><br />うまく言葉が見つからない。<br /><br />何かとても、極端な世界を行き来しているな。<br />ああいうかたがたにとってみれば、私など微温湯暮らしの何も残らない人生の上を唯ふらふらと、歩んでいるだけのように見えるんだろう。それは感じていた。<br /><br />しかしこれほど実感として感じたことはない。<br /><br />もう個人的に人生のクリティカルな判断を色々と下し始めている、私にとってこの邂逅は少しの間だったけれど、<br /><br />忘れられぬ感慨とともに、<br /><br />己の生き様を見直す重いきっかけをくれた。<br /><br />それがもうあれきり遂に聴けなかった私への、あのひとからの最後のプレゼントだったのか。<br /><br /><br />うまくまとまらない。こんな時間に、こんなニュースを、しかも間接的に知るというのは、とても重く、悲しい。素直に悲しい。<br /><br />しかし悲しんで呉れるな、と言うだろう。<br /><br />遺されたものをもう一度聴こう。<br /><br /><br />それが一番の。。Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/05928427561611033030noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-19911580.post-1145419077005025212006-04-18T20:18:00.000-07:002006-04-18T20:57:57.540-07:00著作権移譲表記がなかったので某百貨店の某ブログで書いた記事が消されるとやなので転載しておく。 二種類の芸風で提灯風味で書いてみたのであった。殆ど時間かけてないので、内容の浅さはとりあえず、おいておいて。<br /><br /><a href="http://mcs.mitsukoshi.co.jp/img/u716/bgthumb/BTH9636_0B.jpg"><img style="FLOAT: right; MARGIN: 0px 0px 10px 10px; WIDTH: 162px; CURSOR: hand; HEIGHT: 192px" height="323" alt="" src="http://mcs.mitsukoshi.co.jp/img/u716/bgthumb/BTH9636_0B.jpg" border="0" /></a><br /><br /><a name="20060124"><strong>2006年01月24日</strong></a><strong>の記事<br /></strong><a name="9636"><strong>キッチンに遊ぶ。</strong></a><strong><br />[ 16時51分 ] [ こだわりの商品 ]</strong><br /><br />紅茶用のポットが割れてしまった。「コーヒー用」の硝子ポットが割れてしまった、と言ったほうが正しいか。兼用である。とにかく、困った。いろいろな店に行ったけれど、気に入るものがない。ふと立ち寄った三越本店で、キッチン用品の店を覗いてみた。KitchenLABOさんだ。・・・あ、ハリオ。ハリオは硝子メーカー。茶葉を網で押さえてそのまま淹れられる一人用のスリムな紅茶ポットで有名だ。・・・あるある。ちょうどいいのがあった。紅茶の目盛も付いているから使える。背が低い平型で、うっかり手が当たっても落ちにくいようになっている。そうそう、こういうのだ。これを買っていくことにした。とても手ごろなお値段。ついでに店頭を目で物色することにした。よくよく見ていくと面白いものが揃っている。 <a href="http://mcs.mitsukoshi.co.jp/img/u716/bgthumb/BTH9636_1B.jpg"><img style="FLOAT: left; MARGIN: 0px 10px 10px 0px; WIDTH: 123px; CURSOR: hand; HEIGHT: 151px" height="187" alt="" src="http://mcs.mitsukoshi.co.jp/img/u716/bgthumb/BTH9636_1B.jpg" border="0" /></a><br /><br /><a href="javascript:MM_open("></a><br />これ何でしょ?シーズンものですね。「チョコレートフォンデュ」の機械です。チーズじゃないよ。色も形もかわいい。火を使わないしコンパクトだから、バレンタインにこれ持って出かけて一緒にフォンデュ、なんてどうだろうね・・・男だからよくわかりません。簡単に湯せんができるので、子供のお菓子作りにも使える。型や道具もいろいろついてお値段もお手ごろ。Mini Fondue Maker、赤、青、緑、黒の4色。saltonというブランドです。<br /><a href="javascript:MM_open("></a><br /><br /><br /><br /><br /><a href="http://mcs.mitsukoshi.co.jp/img/u716/bgthumb/BTH9636_2B.jpg"><img style="FLOAT: left; MARGIN: 0px 10px 10px 0px; WIDTH: 145px; CURSOR: hand" height="183" alt="" src="http://mcs.mitsukoshi.co.jp/img/u716/bgthumb/BTH9636_2B.jpg" border="0" /></a>ちょっと面白いのがこのゴム製の鍋つかみ。普段はまっ平らなので滑り止め仕様の鍋置きになるし、固い瓶の蓋も開けられる。耐熱だからちょっとした熱い容器でも持てます。面白いなあ。汚れないし場所もとらない。こういうお手ごろでちょっと気のきいたキッチン用品が多くて、雑貨好きは目移りしてしまう。私は料理をやったりもします。<br /><a href="javascript:MM_open("></a><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />圧力鍋も進化してますねえ。これ、ドイツのメーカーの取っ手付き「圧力鍋」なんです。高さが無いので置き場所にも困らないし、手軽に使えそう。・・・ほしいなあ。ちょっと高級すぎるかな、私には。 <a href="http://mcs.mitsukoshi.co.jp/img/u716/bgthumb/BTH9636_3B.jpg"><img style="FLOAT: left; MARGIN: 0px 10px 10px 0px; WIDTH: 129px; CURSOR: hand" height="213" alt="" src="http://mcs.mitsukoshi.co.jp/img/u716/bgthumb/BTH9636_3B.jpg" border="0" /></a><br /><a href="javascript:MM_open("></a><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />定番のル・クルーゼのホーロー鍋・・・うーん、、、いいお値段だけど、実は家で使ってます。めっさ重くて安定しているから、粗暴な私にも(?)使いよいのだ。別に「炒め物がくっつきにくい加工」は施してないのだけれども、何故か滅多にくっつきません。オーブンにも使ってます(取っ手が溶けるかもしれないので、使うときはアルミホイルか何かを蓋のかわりにしたほうがいいと思いますが)。ハート型の鍋もある。カラフルで、いろいろ出てるんですねえ。この小さな小さな鍋とか、キッチンの飾りにもいい。これは実用品だけど(何に使うんだろう?)、火にかけないならかなり手ごろなものもあります。菓子容れなんかに使えそうだ。実用鍋でなくとも重さはあるから、手が当たっても割れにくそうだ。・・・といろいろ紹介していると尽きないくらい、それほど広い店でもないのに面白いものが取り揃えてあった。また物色しにこようかな、と思いながら新館地下へ。前回売り切れていたクラブハリエのバームクーヘンを買った。ハリオで淹れた紅茶と一緒に、今晩は少し、ほっとできそう。<br /><br /><br /><p><img style="DISPLAY: block; MARGIN: 0px auto 10px; WIDTH: 200px; CURSOR: hand; TEXT-ALIGN: center" alt="" src="http://mcs.mitsukoshi.co.jp/img/u716/bgthumb/BTH9636_4B.jpg" border="0" /><br />[ 更新日時:2006年01月24日 17時37分 ]<br /><a name="comment_9636"></a><br /><a name="20060113"><strong>2006年01月13日</strong></a><strong>の記事<br /></strong><a name="9262"><strong>あかり、かたち。</strong></a><strong><br />[ 23時16分 ] [ 日記 ]</strong><br /><a href="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/1600/DVC00222.jpg"><img style="FLOAT: left; MARGIN: 0px 10px 10px 0px; CURSOR: hand" alt="" src="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/320/DVC00222.jpg" border="0" /></a><br />日本橋三越本店。ここに来るといつも日本の中心に立った心地がする。そしてとても懐かしくなる。明治の遠の昔をにおわす日本橋をわたるとすぐ新館入口がある。周囲の闇と対照的なとても明るい光が放たれている。ここには夜来るとよい。本館の外観にはロンドンのデパートを思い出させる重厚さがあるが、押し付けがましさは無い。大きなライオン二頭がしかし何気なく来る者を迎える。内部はアール・ヌーヴォの香りのする造形に彩られた昭和初期建築。設備は新しくなってはいるが、凝った装飾には煌びやかな時代の香りがする。 </p><p></p><p></p><p></p><p></p><p></p><p></p><p><img style="DISPLAY: block; MARGIN: 0px auto 10px; CURSOR: hand; TEXT-ALIGN: center" alt="" src="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/200/DVC00183.jpg" border="0" /><br /><a href="javascript:MM_open("></a><br /></p><p align="left"><a href="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/1600/DVC00178.jpg"><img style="FLOAT: left; MARGIN: 0px 10px 10px 0px; CURSOR: hand" alt="" src="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/200/DVC00178.jpg" border="0" /></a></p><p>金色。この建物に入って感じるのはまず、金色。そして煌々と床を照らすあかりの様々な形。本館のあかりは楽しい。天井を見ながら歩くとよい。さまざまな形をした白灯のパズルのように組み合うさまを見ていると飽きない。近来の建築には見られない丁寧な設計の産物だ。 </p><p> </p><p> </p><p align="left"><a href="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/1600/DVC00178.jpg"></a> </p><p><a href="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/1600/DVC00058mini2.jpg"><img style="FLOAT: left; MARGIN: 0px 10px 10px 0px; CURSOR: hand" alt="" src="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/200/DVC00058mini2.jpg" border="0" /></a><br /><a href="javascript:MM_open("></a><br />日本文化は「粋」だという。しかし私はそうは思わない。「粋」は爛熟しきった江戸文化の裏返しの概念にすぎない。ほんらい日本・・・江戸文化は日光東照宮に象徴されるような、とことん派手で明るいものであると思う。本館中央で威容を誇るまごころの陶像には、天女を包みこむ緻密な装飾の燃え上がるような壮大な絡み合いに、江戸の昔から脈々と伝えられた「派手文化」の象徴を見る思いがする。<br /><a href="javascript:MM_open("></a><br /><br /><br /><br /><br /><br /><a href="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/1600/DVC00188.jpg"><img style="FLOAT: left; MARGIN: 0px 10px 10px 0px; CURSOR: hand" alt="" src="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/200/DVC00188.jpg" border="0" /></a><br /><br /><br /></p><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p>吹き抜けの天井からはステンドグラスを僅かに配した白硝子を通して眩い光が降り注ぐ。バルコニーを幾重にも張り巡らせたルネサンス式の建築造形を見上げてから、像の裏に回ってパイプオルガンの下にもぐりこむと、そこには不思議な狭い空間がある。この建築にはこういった「遊び」の空間が諸所にある。昭和初期の建築らしいところだ。外壁に接していない丸窓を発見して喜ぶ。桃色の大理石の中にアンモナイトやベレムナイトが潜んでいる。歴史は人類から遥かに遡った上古にかえる。</p><p><a href="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/1600/DVC00186.0.jpg"><img style="FLOAT: left; MARGIN: 0px 10px 10px 0px; CURSOR: hand" alt="" src="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/200/DVC00186.0.jpg" border="0" /></a></p><p><a href="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/1600/DVC00192.jpg"><img style="FLOAT: left; MARGIN: 0px 10px 10px 0px; CURSOR: hand" alt="" src="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/200/DVC00192.jpg" border="0" /></a></p><p><a href="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/1600/DVC00184.jpg"><img style="FLOAT: left; MARGIN: 0px 10px 10px 0px; CURSOR: hand" alt="" src="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/200/DVC00184.jpg" border="0" /></a></p><p></p><p></p><p></p><p></p><p></p><p><a href="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/1600/DVC00184.jpg"></a></p><p></p><p><a href="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/1600/DVC00216.jpg"><img style="FLOAT: left; MARGIN: 0px 10px 10px 0px; CURSOR: hand" alt="" src="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/200/DVC00216.jpg" border="0" /></a>様々な階段やエスカレーターはだまし絵のように不思議な組み合いかたをしていて面白い。迷路を巡るような、ちょっとした探検気分を味わえる。レトロな博物館を見て廻っているような気になってくる。 </p><p></p><p></p><p></p><p><a href="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/1600/DVC00182.jpg"><img style="FLOAT: left; MARGIN: 0px 10px 10px 0px; CURSOR: hand" alt="" src="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/200/DVC00182.jpg" border="0" /></a>そうそう、紅茶。今日は紅茶を買いに来たのだった。新館地下に降りると、茶色い筒のようなものがいくつも吊ってある。何かと思ったらバームクーヘンだ。「切り株」の名のとおり、切る前は丸太のようなんだな。ケバブを横にしたような不思議な姿。翻ってメイソンの青いあかりの手前に香港のペニンシュラがある。ペニンシュラを買うのは初めてだ。まだファストフラッシュには早い(当たり前だ)。新鮮なセカンドフラッシュが出ていた。茶葉の香りは弱いが、そのほうが軽いから格好だ。紅茶を飲むのは夜だ。夜は軽いものか、優しいハーブとのブレンドがいい。もっとも紅茶ほど乾いた香りと煮出した香りの違うものもないのだが、淹れ方でも全く違ってくるし、一概には言えない。ストレートで飲むダージリンはなるべく新鮮であるに越したことは無く、またある程度名の通ったところのものは飲み易い。これがいいだろう。あともうひとつ、気分の落ち着くハーブというとラヴェンダーかカモミール、しかし前者は少し強く匂いつく感じがする。ミルクを入れるなら甘いカモミールのほうがいい。というわけで、今日はセカンドフラッシュとカモミールの二つを買った。ほっとする週末、日常の苦いコーヒーで荒れた胃を爽やかな紅茶で鎮めることにしよう。明るく開放的な店をあとにし、またしばらくまた館内をうろつくと程無く閉館時間が来た。冬の冷たい空気に黄色い明かりが名残を残して、駅はもうすぐだ。 </p>Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/05928427561611033030noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-19911580.post-1145099408939569742006-04-15T04:09:00.000-07:002006-04-15T04:10:08.956-07:00ぼくらは分子化合物のように。そんなことを言われても返す詞もない。かといってまっとうに問われても同じだろう。どちらの意味にとったとしても、結果は一緒なのだ。 綺麗ごとなんてこの世にはないと思っていたけれど、空は晴れ渡り海はどこまでも黒潮の色をたたえ、ぽつんとあるレストランで、何時間座っていたのだろう。 車を降りたときには空気は湿気をはらみ、淡い霞が白い亡霊のように流れていた。 街灯を離れ、時よりも深い闇が、揺らぎつつも全てを曖昧な幻へ返していく。 街灯の下にはもう彼女はいない。 無意味に羽ばたく翼が、無性に悔しかった。 サンキュAnonymoushttp://www.blogger.com/profile/05928427561611033030noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-19911580.post-1143612975972364192006-03-28T21:58:00.000-08:002006-03-28T22:16:16.036-08:00オカルトマニア帝国の崩壊まー古いオカルト実録界の重鎮たちが西のお空へ次々と旅立っていった今、こういう事態はいずれくるものだと思っていたが。ネットなんか見てるとあきらかにプロノンプロ限らず(プロであることに拘るのって文章と音楽だけだよなー・・・どうなんだよってかんじもするが)みんな飽きてきてる。もしくは興ざめしてしまった。もしくは私みたいに、オカルトである必然性すらないものだと思うようになってきてる。意味伝わるかな?つまりオカルトは何か他のもの他のことを楽しむうえでの一つのギミックにすぎない分野である、と諦めてしまったということだ。<br /><br />実証派はリアル世界にかえっていき、娯楽派は商業的なものに完全にベクトルをあわせてしまった。だからネットは不毛になってるね。むやみと創作した「ネット伝説」を広げようとするガキも、単発するだけで継続しない。いや、ネット伝説自体に以前ほどの威力はなくなっている。逆にネットはジェネラルになってしまったので、マニアが居づらい環境になってしまった。それだけのことかもしれないが。<br /><br />さてどーすっかなー?<br /><br />うちのサイトはブログなんて世の中になかったころから運営してる「日記」だし、ふしぎと感じたことは随時アップしていくけど、コーナーによってはかつて頻繁に更新していたところでも1ヶ月放置したり、さっき気づいたんだが、何年も自分でも見てない場所もある。整理しなきゃなー、と思ってたのは学生時代のこと(そのころはほんとに紙面の日記だった)、今更無理。ネットにのっけておくことで自分の備忘録になるという側面は私は非常にメリットと感じているので、備忘録までに権利だなんだ言われたくないからここ数年殆ど宣伝してないし、実際来る人も限られている。無名であることは自由であることだ。クーチカやアイヴズが大好きな私はこんなかんじで続けていくんだろうな、今後も。それにしてもネットは移り変わりが早い、登場人物が頻繁に入れ替わるのは、「骨のねーやつらばっかだなw」としか言いようがないですねえ。<br /><br />田中貢太郎先生の正確な墓所がやっとわかった(役場のかたありがとうございました)。某有名古書店で桃葉先生の句紙が二束三文だったので買った。気に入って今も生のまま枕許に飾ってある。ミクシの日記にちょっと書いて画像も載せた。季節はずれ命日はずれの墓参りは何の酒持ってくかなー?<br /><br />高知県高知市仁井田三里ふれあいセンターの南「高知市三里墓地公園」内(ずいぶんでかいとこに集められたんだなー・・・)<br /><br />区画までわからないが、意地で探してやるうー。ついでに聖神行って録音でもしてくるか。楠をなでたら祟られるかな?最近「やつら」来ないので、そんなことも軽々しく言う気分の今日このごろ、いかがおすごし?あと野根山街道は大丈夫そうなのでちょっとだけ(16キロ)歩いてきます。妖異に足の指とられないか心配だ。Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/05928427561611033030noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-19911580.post-1140373421024845862006-02-19T10:17:00.000-08:002006-02-19T10:23:41.040-08:00starwarss return of the jedie<a href="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/1600/robo.jpg"><img style="FLOAT: left; MARGIN: 0px 10px 10px 0px; CURSOR: hand" alt="" src="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/400/robo.jpg" border="0" /></a><br /><a href="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/1600/xwing.0.jpg"><img style="FLOAT: left; MARGIN: 0px 10px 10px 0px; CURSOR: hand" alt="" src="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/400/xwing.0.jpg" border="0" /></a><br />らくがき置き場がバグってるので。Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/05928427561611033030noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-19911580.post-1140187466512815032006-02-17T06:42:00.000-08:002006-02-17T06:44:26.526-08:00もろもろ音盤漁り落ち着いたと思ったら本30000円くらいかってもうた。どーすんだよ給料日まで!ネ申田は店減ってもう古書目当てじゃあてが外れるばかりだ。<br /><br />で、新品買うしかないわけで。「かうしか」ってナウシカににてる。わいいとして、国書刊行会本はほんとにむかしから高い!!入手をまよいつづけた江戸妖怪絵巻ものをいっきに買った。<br /><br />さいきん和モノを離れてるので揺り戻しにかったわけだが、水木フィルターがかからない江戸女夭怪ってつくづくシエ戸臭い。こりやあやつぱり原本みなけりやあ元のいみが曲がってつたわるつてえたくひのもんた。江戸っ子の感覚なんですよ。狩野派出身のじつは浮世絵界では重要人物である鳥山石燕、かれが現代の水木サンのように妖怪の意味を一定水準の画により平準総括したから、妖怪は今みたいな変な実在論をまぢえた権威になっちまったんだね。<br /><br />原意を汲み真のニュアンスをあらはした、妖怪画の「現代語訳」が今こそ必要だんなあ。<br />とにかく妖怪てドウモ江戸臭いんだ。詞ひつくるめて江戸っ子臭い。洒落やマニアック趣味や遊びにまみれてる。そこを「現代語訳」したいなあ、うちのHPのひとつの目標ではあるけれど。水木サンは芸術家すぎる。絵師として個性がつよいから江戸っ子の偏狭な趣味をひろげてしまう。素朴で下手くそな土佐絵の妖怪が目標だな、ラクガキ師としては。もちろん現代語訳としてさ。アニメ絵趣味とかあったら面白い現代語訳ができたろうに、生憎年代的に趣味がないからなあ。萌え萌え妖怪画とか書きたかったなあ。萌え萌えぬらりひょんとか。<br /><br />そうそう、姫国山海録の読み方を間違えてた。英語版のほうにHIMEGUNIて書いてたがKIKOKU音読みの間違い。食いついてくれた人に悪いなー、と修正いったらブログのラクガキの一部が消えてた。おおざっぱだなああいかわらずアメリカて国はあ。復旧したらなぜかフランスとかドイツとかからアクセスが。いつにない食いつき。修正しても更新扱いになるのかあそこは?うーむ。<br /><br />ま、七冊三日でラクガキ化してみせる。ネ申おりてこい。・・・趣味人として度を越してますよ。付き合い悪いですよ。<br /><br />河童駒引考買っちったよ、ハードカバー。比較民俗学のほうがしっくりくるわ。日本のオカルトて日民チックで文芸色こゆすぎ。京極サンやら多田サンやら東サンやらみんな文芸や日本民俗学系。唯物考古のあたしゃアウトサイダー。にしてもうちには昔大量に折口系の本あったけど、誰が読んでたんだ?先祖に民俗いたのかね。<br /><br />ニチミンといえば故宮田登先生だなあ。厳しくて単位とれないしちーともオカルト出てこないってからゼミやめといたけど、とっときゃ自慢できたんだよなあ。ニチミン系の有象無象のヤカラに。あの人超霊感あるって評判だったけど、崇拝してるニチミンマニアがそのてのこと語ってるの聞いたことない。直接教わったやつに言わせると無茶苦茶気味悪いらしい。階段の上に立ち尽くす宮田先生、「どうしたんですか?」と声かけると今、階段の踊り場に、しゃがんでる、って。いなくなったと言って降りてったらしい。誰か宮田先生の霊感について知らんかなあ?Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/05928427561611033030noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-19911580.post-1139106559797494192006-02-04T18:18:00.000-08:002006-02-04T18:29:19.806-08:00白髪になった犬きのうブロードキャスターの「お父さんのためのワイドショー講座」で「白髪になった犬~忠犬ソニア」の話題を取り上げていた。黒犬ソニアが主人が亡くなってからどんどん白くなっていき、今や白犬になってしまったというもの。もちろん病気ではない。これが一晩ならベルばらのマリー・アントワネットなのだが、一年ということでやや拍子抜けするところもあるけど、問題はその白くなりかた。連続写真によると、まだらに脱色されていき、どんどん白毛に侵食されていく感じで、非常に「気味の悪い」あきらかな白化ぶりなのだ。<br /><br />問題はこの話題がテレビではもちきりだったはずなのに、ネットじゃ一切出てこないこと。ネットの偏向ぶりを改めて確認させられた。メディアの融合なんて、ネット側からもありえないわけだ、このままじゃ。Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/05928427561611033030noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-19911580.post-1138975079129301922006-02-03T05:44:00.000-08:002006-02-03T06:10:24.776-08:00八兵衛は夜泣く<a href="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/1600/gennna006.jpg"><img style="FLOAT: right; MARGIN: 0px 0px 10px 10px; CURSOR: hand" alt="" src="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/320/gennna006.jpg" border="0" /></a><br /><a href="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/1600/hachibee005.jpg"><img style="DISPLAY: block; MARGIN: 0px auto 10px; CURSOR: hand; TEXT-ALIGN: center" alt="" src="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/400/hachibee005.jpg" border="0" /></a><br />中沢新一さんのディープ東京本を感傷的になぞった深夜番組(録画)を見ていたら、古い東京が懐かしくなって何気に手近にあった「東京オリンピック直前の東京」写真集を手に取った。旧軍時代の施設や今は無い戦前建築の崩壊寸前な写真など貴重なんだけど、その中になんとまあ八兵衛の夜泣き石の写真が載っているではないか(詳しくは本サイトのどっかに書いた)。キリシタン遺跡として壊滅した(詳しくは本サイトの江戸東京コラムに書いた)元和キリシタン受難記念碑(碑自体はこの写真集の出版すぐ前に作られた新しいもので、今は上智かなんかに移設してあるらしい)の写真もある。夜泣き石のほうは戦前に比べ明らかに小さくなっているけど(向かって左側の三角石)どうやらこの感じだと今割れた状態で散置されてる石のどれかに相当する石があったように思う。毎日新聞社「写真東京風土記」田中雅夫編昭和39年12月20日発行、最後のページに抽象画が鉛筆でかいてある。子供のころラクガキしたらしい。昔からラクガキばっかな子だったんだなあおれ。<br /><br />ああ風が鳴る、夜が泣く。裏の家が途絶えて空き地になったら風が吹くたび部屋が揺れるようになった。宮沢賢治の夜だ。Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/05928427561611033030noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-19911580.post-1138974252759548822006-02-03T05:25:00.000-08:002006-02-03T05:44:12.776-08:00日本人はすぐオカルトとゆう<a href="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/1600/itoshinoyoukai004.jpg"><img style="FLOAT: left; MARGIN: 0px 10px 10px 0px; CURSOR: hand" alt="" src="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/320/itoshinoyoukai004.jpg" border="0" /></a><br /><a href="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/1600/highgate001.jpg"><img style="DISPLAY: block; MARGIN: 0px auto 10px; CURSOR: hand; TEXT-ALIGN: center" alt="" src="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/320/highgate001.jpg" border="0" /></a><br /><a href="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/1600/koutarou003.jpg"><img style="FLOAT: right; MARGIN: 0px 0px 10px 10px; CURSOR: hand" alt="" src="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/320/koutarou003.jpg" border="0" /></a><br /><a href="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/1600/kouzan002.jpg"><img style="FLOAT: left; MARGIN: 0px 10px 10px 0px; CURSOR: hand" alt="" src="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/320/kouzan002.jpg" border="0" /></a><br />お化けとかそのへんの世界が好きな人を見てにほんじんはすぐオカルトズキとか言うけど、ほんとはオカルティシズムて言葉はニュアンス的に適切じゃないわけで(西欧の宗教生活の中ではぐくまれた伝統的な神秘主義の意味合いが強くサタニズムなんかとも親和性がある)、日本で言う怪奇心霊話のたぐいはホラーとかテラーとかジンジャーとか(おやじぎゃぐ)スーパーナチュラルとかいろいろと別のもっとニュートラルな言い方があるのだ。そんなことはいいとして、おもむろに手近な本の表紙でも。権利どうたらいうやつはオカルトな目にあわしたる(当事者権者だったら土下座する)。Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/05928427561611033030noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-19911580.post-1138873281198861442006-02-02T01:13:00.000-08:002006-02-02T01:41:21.210-08:00どーでもいいと思いますinオカルト遅ればせながら「怪談界」の諸所に頻発する異変を一通り見渡して、思った。<br /><br /><br /><br />どーでもいいじゃん。<br /><br /><br /><br />怪談文学だの実話怪談だの、文系用語じゃどうとでも定義可能なもんで、そこをいろいろ机上で論じ合ってもせんないこと。「実話」「実録」という名称が胡散臭いタブロイド記事の蔑称として通用した時期もあることを念頭におくと、後者がガチである必然性もそもそもない。実録即ち近代ジャーナリズムの体をとることによりリアリズム様式とも呼べる文学形態をなした創作も多く、このへんの線引きは微妙でケースバイケースであるし、それをまた判断する根拠も「人ノ口に拠るしかない」という意味で不確かにならざるをえないという、根源的な問題がある。<br /><br />科学的な厳密さを求めるなら物凄く狭いことしか言えなくなるだろう。実際懐疑主義的な立場から怪談なんて眺めなおすと非常につまらない穴に陥ちる。デカルトだったかなんだったか忘れたが、モノゴトを捉えるとき、それを見つめる「観察者」という自己が存在する以上、主観を絶対的に排することはできない。これは科学自身だってよく陥るジレンマでもある(最近の生化学分野における実験結果捏造発覚のニュースなんかその最たる例ですな)。必ず何かの媒体(怪談の場合「話者」かねえ)を介して伝わるものである以上、それが本当にホンモノの話であることを証明するには、主観の余地のない「客観的証拠(端的な物的証拠だってあてにならない、写真のたぐいなら尚更)」が存在すること、さらにその「再現性」があることは不可欠の条件であり、それが共に厳密に担保出来ない限りは干草山中針を探すような空しい空論になるだけで、つまるところ「どこで”虚偽”と”真実”の線引きをするの?」といったところにどうしても主観を入れざるをえなくなるものなのだから、「実話実録」の類に無闇に拘り突っ込むことには土台意味がないように思えるのです。<br /><br />めんどくさくなったので終わり。別にジャンル限定とかねえ、わざわざ「怪談募集」とかいう賞を乱設しても、怪談以外の分野で力を発揮してる人のほうがよほど怖いもの描けたりするわけで、私ナンザ怪談嫌いで幻想好きなのだから、興味ないです。幻想文学も人気ないからなあ、微妙繊細すぎて金にならず書き手も集まらないというのもある。Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/05928427561611033030noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-19911580.post-1137719651774290372006-01-19T17:13:00.000-08:002006-01-19T17:14:11.783-08:00恐怖の正体前も書いたことだが、ちょっとホラーの手法ということを考えさせられた。「悪魔の棲む家」がリメイク公開される。壁から血がどばーと流れたり、ガラスが割れたりといたって騒々しい内容のホラー映画だ。しかし本当の恐怖というのはそういう物理的な畳み掛けで煽られるものなのだろうか。番宣を見ながら、いや、こんなのより、たとえば一晩中まったくの無音状態で、しかし夜中の0時ぴったりに必ず<br />ことり。<br />と音がする。それだけ。しかしそれだけのもののほうがよほど、恐怖ではないかと思う。ジャパニーズホラー好きにはそんなの当然だろと言われそうなことだが、改めて70年代後半西欧ホラーからスプラッタにいたる流れを思い起こすに、寧ろ騒々しいのは賑やかで楽しいものなんだよなあ、と(特にバタリアンやクリープショウあたりのスプラッタになるとブラックコメディだ)思った。Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/05928427561611033030noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-19911580.post-1136905653588096582006-01-10T07:01:00.000-08:002006-01-10T07:07:33.600-08:00年賀状全廃宣言(ほんとに出したい相手を除く)あー、今年はほんとに出し損だった。<br /><br />郵便局も辛いよな、というか、ほんと年賀状離れしてるんだなあ、みんな。全部別の柄で出せそうな範囲になってきたよ(殆ど別の柄だが)。しかし1週間たってやっと返ってきたりとか、出して返ってこない数が例年になく多かった。だから今年はいいかげんやめようとおもったんだよなー。くそー、うっかり出しちったよ。上の人に対してはオトナとして返ってこなくても出すからそれはともかく、<span style="color:#ff0000;"><strong>タメ以下は全廃して</strong></span>見たいやつだけ宛にWEBで公開しとくかなー。どっかに年賀状専門サイト作って(たんなるアルバムサイトともいう<br /><br />虚礼虚礼って言うけどさ、<strong><span style="color:#ff0000;">虚かどうかはてめーが決めるんじゃねーんだよ</span></strong>、ほんとうは。勘違い多いけどさ、てめーの都合で礼を失してるだけなんだよ。虚かどうかは最終的には出した相手次第だ。俺の場合は返ってこなくてはじめて虚なんじゃないかと気づいたわけだが、<strong><span style="color:#ff0000;">キレもするわな</span></strong>。<span style="color:#ff0000;"><strong>こんなに子供な関係のやつが多かったかと今更ながら落胆してるわ。</strong></span>趣味趣向馴れ合い関係の連中はダメだな。それに比べて前も書いたけど、40台以上の人って殆どしっかりしてるよ。住所録に登録されてるだけだとはいえ、こちらが出す出さないに限らず出してくる人が殆どだ。<br /><br />これは虚礼じゃない。<span style="color:#3366ff;"><strong>礼だよ</strong></span>。受け取るこっちが、礼と感じたわけで、出さなかったのであわてて即返した人も結構いた。 <span style="color:#ff0000;"><strong>貰ったもんはフツー返すよな。</strong></span>何か言い訳するならともかく、全く何の反応もないと、死んだかと思うよ。死んだら香典出さなきゃなんねーだろ。それも、虚礼か?<br /><br />くれぐれも、<strong><span style="color:#ff0000;">弱さや傷の舐め合いや愚痴の言い合いで成り立ってた仲間連中ってのは、 あてになんねーよな。</span></strong>くそ。 対して、人間的に嫌いな奴苦手な人との間のほうがむしろ、こういう礼の面でもきちっとしてるってのは確かにある。たぶん、人間的にお互い成長できる相手ってのは、そーいう「合わない連中」のほうで、やっぱ馴れ合いに浸るってのは人間よくない。敢えて合わない世界に首突っ込んでくのが生き方として深みが出てくる、というのは言うまでもないことだけど、、、難しいんだけどね。<br /><br /><strong><span style="color:#ff0000;"> (さいきんの不機嫌は年賀状にすべての原因があります)</span></strong><br /><br />当然、いっつも逢ってる連中とは別に賀状なんてやりあう必要はないとは思ってるよ。<strong><span style="color:#ff0000;">約三名</span></strong>、おめーらには、つくづくだよwAnonymoushttp://www.blogger.com/profile/05928427561611033030noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-19911580.post-1136531505292641542006-01-05T23:09:00.000-08:002006-01-05T23:11:45.303-08:00INTO DEEPこのままでいーんだろうか、と思う。<br /><br />遅い。<br /><br />それはわかってるんだけど、ふと、やっぱりなんか違和感があるのだ。<br /><br />遅い。<br /><br />それはわかってるんだけど、ふと、我にかえるような気がすることがあるのだ。<br /><br />だいぶ昔に眠りについた自分の目が醒めたような感覚。<br /><br />だいぶ昔、そう、高校生くらいのころじゃないのか。<br /><br />遅い。<br /><br />どっちがほんとうなんだろう?<br /><br />今の自分は間違いなく昔思っていた未来の自分ではない。<br /><br />かといって昔の自分が今ここにある以上の自分を想像をしていたとも思えない。<br /><br />遅い。<br /><br />それはわかってる。<br /><br />だけれどもふと思うのだ。<br /><br />あのときもう少し勇気があれば、どうなっていたんだろう?<br /><br />あのときもう少し外れる勇気があれば、どこへ行っていたんだろう?<br /><br />あのときもう少し現実という虚像から外れる勇気があれば、俺はどういう世界で何をやっていたんだろう?<br /><br />今何一つ得られていない虚無感に絶え間なく苛まれる中で、ふと思うのだ。<br /><br /><br /><br /><br />今外れたら、どうなるんだろう。<br /><br />失うものはない。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />・・・遅い。<br /><br />遅い。Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/05928427561611033030noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-19911580.post-1136446773739094992006-01-04T23:38:00.000-08:002006-01-04T23:39:33.750-08:00文章を書くことへの憧れ・・・人がどこから来て、どこへ行くのかなんて、ほんとは誰もわかっちゃいない。ただひとつ確かなのは、墓場に行くことだけ。<br /><br />雑誌の追悼号を続けざまに読んだ。<br /><br />涙が出た。<br />それは別に知り合いではない全くの無関係な人だけど、寄せられた文章のひとつひとつから発される地声の悲しさに、素直に泣けた。全てが巧い文章ではない、むしろ下手が多いのだが、ほんとうに書きたいことが先におっきくあって、今書けることはその一部にすぎない、そんな文章が多くて、そのウラが読めて泣けてくる。<br /><br />昔の人は不自由なコミュニケーション手段しかもたなかったから、交わせる少ない情報を補うため、ありったけの想像力を駆使していた。少ない言葉や音から壮大であったり激情であったりしのつく雨のような悲しさであったりさまざまな感情をかもし出す繊細な表現、それを受容して理解する力をもっていた。<br /><br />昔の小説は面白くない、昔の音楽は楽しくない、ごもっとも。でも、それは昔の人のせいじゃない。こちらの想像力が欠けているだけなのだ。<br /><br />・・・全てを極限まで削りたい。最小限にしたい。<br /><br />そして、昔の人に読んでもらいたい。<br /><br />(某コミュニティの自己紹介より転載)Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/05928427561611033030noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-19911580.post-1136278149229342212006-01-03T00:45:00.000-08:002006-01-03T00:49:09.240-08:00功名が辻に出るそうだうちの田舎が。 土佐の仁淀川沿いの小さな部落である。 3代前くらいに出てから100年近くほったらかしにされた田舎である。100年ぶりに行ったのは僕だ。 土佐は地図で見るよりよほど山深い。仁淀川は大きな川だがV字谷を形成するような奥山の大曲りの河原から山壁に貼りつくように鎌井田部落はある。戦国時代に長宗利部の九州討伐に敗れてこの佐川に近い山中に落ちのび、開墾してうちは庄屋となった。江戸時代の代々の墓は朽ちてはいたが地元の方の協力で一通り綺麗になっている。何故か南北朝期と思われる石塔が二つあり戦国時代という設定とは符合しないのだが正直わからん。本家は高知市にあるのだが今はそちらに墓を作っているので、結局分家の次男である私が行くまでほったらかしだったわけだ。ひでえ。 ここまで定期便はない。バス停のようなちっぽけな道の駅が越知にあるが(城下町の佐川からそれほど遠くは無い、「落ち」の変名。ここでいう「落ち」はうちではなく壇ノ浦から逃げ延びた平家方のことだというから落ち武者部落というのが重ねがさねしていくほど山奥ということだ)、其処から老人用バスに同乗させてもらって山間を行かないと届かない。私が小さいころはランプしかなかったとか、火葬場がないから荼毘にふしたとかいう話も聞いたがだいたい100年本家も行ってない筈なので家系内風説なのだろう。 まあ、100年ぶりの墓参りの話は昔書いたおぼえがあるのでこのへんにしておくけれども、山内は尾張の出身であるから多分本編ではなく最初に古い土佐を紹介するロケ地として選ばれたのが鎌井田だったというだけだろう。エキストラとして村の人総勢出演したというが、だいたいちっぽけな部落なのでたかが知れているだろう。山内の子孫とは同級生だったが東京でのことである。土佐人は東を見るクセがあるらしい。 NHK大河をもう何十年も見ていないが、初回だけは録画の準備をしておいた。写真はとってあるが、動いている田舎を見たいように思うから。 竜馬もこんなところから出てきたのであります、興味があれば見ておくんなまし。山越えるのがものすごくたいへんだということがわかるでしょう。近在で同門郷士だったので、かれの書や肖像画があったというけれども、土佐の人は執着しないから全部誰かにやってしまったみたいだ。まあ、たいていの歴史なんてそんなもんだろう。岩崎弥太郎に金貸した証文もあるというけど、時効だね。 そんな田舎です。三が日は終わりだ。 ちなみにK1のレフェリーで岡林というのは親戚だそうです。別のレフェリーに仕事で伺ったことがあるので、K1と縁がなきにしもあらずなのだな。Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/05928427561611033030noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-19911580.post-1136050143791308832005-12-31T09:20:00.000-08:002005-12-31T09:31:39.230-08:00あけまして。<a href="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/1600/a017nanashi.jpg"><img style="DISPLAY: block; MARGIN: 0px auto 10px; CURSOR: hand; TEXT-ALIGN: center" alt="" src="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/320/a017nanashi.jpg" border="0" /></a><br />jpg圧縮だとピンク系がうまくでないので、けっきょく年賀状に使った一つを流用することにしました。 ついでにいちおうメール用に作った崩れようの無い手抜きバージョン。意味通じてへんわ。<br /><br /><img style="DISPLAY: block; MARGIN: 0px auto 10px; CURSOR: hand; TEXT-ALIGN: center" alt="" src="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/320/INUDOSHI.jpg" border="0" /><br /><p></p><p>えきでんだからさらについでに。</p><p></p><p><img style="DISPLAY: block; MARGIN: 0px auto 10px; CURSOR: hand; TEXT-ALIGN: center" alt="" src="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/320/RUN.jpg" border="0" /></p><br /><p></p><p>さよなら2005.・・・あっこれアメリカ時間じゃないか!まだ大晦日かよ!</p>Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/05928427561611033030noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-19911580.post-1135647529200285122005-12-26T17:37:00.000-08:002005-12-26T17:38:49.210-08:00優雅で感傷的な輪舞中沢新一さんの番組、いいなあ。なんかほのぼのとして、でも死の気配がして、なつかしい生活の記憶が東京の底から浮かび上がって、空にぽかん、とうかぶむら雲のように、ほっこりと残る。 青空のした、かつてススキの原野だったアスファルトの大地に立って、綿菓子の雲を見上げながら立ち止まる。子雀が二羽とんできて、油臭い地面を跳ねまわっている。まるで輪舞のようだ。かたはらを車が迷惑そうに徐行する。雀がひょいと脇にそれてまた輪舞を始める。 なぜかよくわからない涙が溢れて止まらない。なんて平和な日なんだろう。風は冷たくてもひのひかりはやさしく体を包み、まるでここがススキが原に戻ったような、雀たちの無邪気に戯れるさまに、この地霊の懐かしい記憶がうつってしまったかのように、静かに涙を流した。 枯れ野を懐かしむ大地の上で、ぼくは新しい記憶を刻みこむ。この記憶を、遠い未来にまた懐かしむ人が現れるのだろう。 僕はすこし嬉しくなり、下手なステップを踏むと、そそくさと職場へ戻った。Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/05928427561611033030noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-19911580.post-1135437190323914192005-12-24T06:44:00.000-08:002005-12-24T07:13:10.356-08:00幻覚ミサ醒めていた。<br /><br />例年のことでありながら今年は何故かまったくの喜びも感傷もなく、ただ至極物質的な感性のままに天井のオジーブを見上げていた。祭壇の後ろに掲げられた簡素な十字架も、単なる木の彫像であった。長年の思い出の染みた壁も椅子も床も、新しく作られた神秘的なマリアの泉も、ただ綺麗で写真ばえのする素材としか思えなかった。<br /><br />ミサが始まった。私はたんたんと歌いながら、寒い席を一覧していた。オルガンの音が宙に消え入る。座るように促され、皆とともに説教を聞き始める。そして私はにわかにまどろみはじめた。もう、私はキリスト教者ではないのかもしれない。それはさびしくもなんともなく、ただ退屈であった。私は、ゆらゆらと揺れていたらしい。<br /><br />ゆらゆらと揺れる景色と、妙に安心しきった私のうつろ目に、奇怪なものがうつった。<br /><br />それは降誕節の歌をうたっているときであった(私は長く音楽に傾倒していたせいか弾いたり歌ったりしながら眠ることがある)、モウ「落ちて」しまいそうな私の横を、巨大な白いものが通り過ぎたのである。<br /><br />それは教会中央の緋毛氈の上をまっすぐ祭壇のほうへと向かっていた。ものすごく巨大な、白い人であった。体積だけを計算したら、通常の人の何十倍もあるだろうか。生白いローブをまとい、厚いフードを深く被って背を丸め、気がつくとぬっぬっと「歩いて」いたのである。背後からしか見えなかったので顔もなにもわからない。その衣装は簡素で、丁度司祭のぞろっとしたお偉い服に生活感を垂らしたような、しかしなんとなくもっと良いものであった。胸から下は前の人の頭で見えなかったが、たぶん緋毛氈の下にあったはずである、なにせものすごくでかかったのに、オジーブの木枠に頭を擦らなかったのだから。<br /><br />私はぎくっと目が醒めた。<br /><br />覚めた。何事もなく空疎なミサの次第がつづいていた。老いた司祭はのんびりと祭壇の後ろで手を広げている。すべては何十年も見てきた決まりごとであり、わかりきったことであり、やはりここにあるものはすべて「物質」にしか見えず、昨年までの神秘的な感覚は失われていた。居並ぶ少年の茶色いローブの下から覗くデニムの裾が拍車をかけた。でも私は別の意味で覚めていた。いや、至極奇妙なものを見た、それだけのことで、あとの1時間はまんじりともせず、呆然と教会の空気を吸っていたのである。<br /><br />これは幻覚であろう。でも、幻覚は時としてそうでないものとコラボをする。あれは何だったのか、「誰」だったのか?数十年、クリスマスミサに参加していて初めて見た、何か神秘的なもの、この場所で何十年も祈ってきた人々の思いの集った、精霊だったのかもしれない。Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/05928427561611033030noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-19911580.post-1135420857486705232005-12-24T00:35:00.000-08:002005-12-24T02:40:59.943-08:00怪談はキライだブンガクはキライだ。<br /><br />・・・と書き出す時点で文学を肯定しているようだが、文学なんてもんは存在しない。そこには文字列とフォーマットだけがある。器に過ぎないものに、何を盛るか、それがたまたま「人を怖がらせる」というものであれば、それらしいものを見繕ってきて、見栄えよく飾るだけで、たいていの発信者はそれがブンガクだとさけぶ。器は音の形をしているかもしれない。色彩と描線によって構成されているかもしれない。そこに面白さとかゲイジュツセイとかを求めるのであれば、盛られているものを食べてみないとわからない。見栄えだけ求められていると感じること、それは現代日本の薄氷のような文化形態を肯定しているだけだ。マニアは集まれど、普通の人は集まらない。<br /><br />まるで水木ファンクラブのような「怪」をはじめとして、好きだった怪奇系雑誌に次々と裏切られるにつけ、「怪談はキライだ」と声高に叫びたくなってくる。オウム後のぐつぐつとした潜伏期間をへてオカルトが解禁になり、堰を切ったかのようにジャパニーズホラーとかいう映画や小説が量産されるようになった現代、何故かそれがどんどんと、味のないものになっていくように思えて仕方ない。音楽については学生時代から言ってきたことだが、技術技巧が「言いたいこと(言うべきこと)」を上回っている状態をよしとするような、中身を求めない風潮はどうかと思うのだ。<br /><br />ホラーはキライ、だいたい作り物や脳内ものに何も魅力を感じない人間なのだからしょうがない。私は見栄えに興味は無い。純粋な好奇心とイマジネーションを喚起する要素として怪奇ものが適切だから関心を寄せているだけなので、写真だとか証拠だとか、ましてや恐怖を煽るギミックや技術的なものに全く左右されない人間である。<br /><br />「幽」にはガッカリした。正確には、やっと本音が出てきたか、という部分があったのである。それはよりにもよってオカルトを素材としてしか見ていない・・・否定派と言ってもいい京極、ブンガクとしてしかとらえていない東、そして「表向きは実録」怪談作家として名をなした木原氏による鼎談である。ここにはそれぞれが歩み寄りもせずそれぞれのすれ違いが変な具合に露呈している。だが一致している点がある。<br /><br />みんな、ほんとうのことはどうでもいいのだ。<br /><br />私は本当のことが知りたい。毎晩ドアノブを回す者が誰なのか知りたい。一晩中部屋をうろつく影のことが知りたい。病気でもないのに寝込むようになった原因を知りたい。それはオカルトでもなんでもいいのだ、理由が知りたいだけだ。その味の正体が知りたいのだ。<br /><br />木原氏が共著した新耳袋が十数年前に上梓されたさい、その表採方法に民俗学的な主観を入れない(ように見せかけて恣意的に巧みに配置した)羅列手法と江戸話的な随筆手法・・・理由も何もなくただ断章をつらねる・・・が取り入れられ、しかも内容がまだ一般的でなかった都市伝説というものに「突っ込んで」触れていたために、当時本家耳袋などに親しんでいた私は非常に興味を持った。それは一部で話題にはなったが、当時まだ落語的なオチを持つ70年代的怪談が主流だったためすぐ絶版になったように記憶している。バブル崩壊後に復刊され、そこには「敢えて削った話」という確信犯的手法で続巻を期待させる「引き伸ばし」があったせいか、爆発的に売れたのはホラーファンなら誰でも知っていることだ。私の手元にはその版が残っている。同じ話を別な形に編纂して別本に出すというあざとい手法に若干疑問を感じだしながらも、最初の3巻くらいまでは、十分に「新しい」ものとして読むことができた。<br /><br />だが何か違和感を感じ出して買うのを止めたのはジャパニーズホラーブームの火がつく前だったと思う。結局、70年代的怪談に戻ってしまったような感じがしたのだ。同じ話を引きに引いて続きを買わせる手法、同じような話の連環、ひいては「千手観音の写真」にいたっては辟易していた。この人ははなから確信犯だったのだ。信じちゃいない。「手法」だけなのだ。とても巧みな器だけなのだ。盛られているものは大したもんじゃない。私は現代怪談全般にあふれる「ビジュアル先行」イメージと全く同じ根を持つようにも思った。そのころから殆ど現代怪談ものを読まなくなった。<br /><br />その木原氏が、言葉を選びながらもしょせん、怪談は創作だと言ってしまっている。京極さんの手にうまくのせられている。しかもこの雑誌、ホラー小説雑誌と実録雑誌の境界線をちょっと高尚な位置で探るという新規性が売りだったのに、ここで結局宣言されていることは、「これはホラー雑誌であり、ホラー小説を募集します」ということなのである。表紙の装丁にも辟易とした。余りに現代的だ。<br /><br />松谷さんのような人を持ってきているし、漫画にかんしては最高クオリティといっていい。だから買うことに躊躇はないのだが、中岡さんやつのださんが散々とりあげた鬼怒川温泉をいまさらK温泉として出してみたり、幽玄の雰囲気があるだけの場所をまるで某スピリチュアリストのように殊更に取り上げて、無理やり怪奇スポットに仕立てている。どうせならギミカルにブブカのような線をいけばいいものを、ブンガクのラインで仕立てようとしているところがまた、露骨に目についてしまうのである。ついに鏡花を出してしまったところなどあきらかに創作文芸におもねっている。次はあるのか?<br /><br />この雑誌は文芸雑誌である。怪談集だ。<br /><br />私はブンガクはキライだ。<br />怪談はキライだ。Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/05928427561611033030noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-19911580.post-1135184265811562652005-12-21T08:41:00.000-08:002005-12-21T08:57:46.743-08:00ガクガクー!レコードをMP3にダビングしてたら途中で操作誤ったらしくて三時間損した!<br />ちなみにシュヒターの第九(季節ものだね)、旧ボロディン弦楽四重奏団のシベリウス「親愛の声」、パスカル弦楽四重奏団のアメリカでした。とりあえずHDプレイヤー(といいつつバックアップHDとしても使っているが)60GBまであと8Gになってきたので、わけわからなくなった音源とか消さないとなあ。でもMP3からの変換がうまくいかないことが多いんですけど東芝さん!音質は満足なんだけどねー。マニアはiPODは使わないのです。sonyがいいそうだけど(音質は好き好きだな)、gigabeatユーザはまだシフトしないでいいかなってかんじ、つーか、ボーナス半分消えたんでもう買えないけどさ。<br /><br />最近またクラシック脳が活性化しつつある。どうも直接的な歌モノというのは聴きたくなくなる場合がときどきあり、そういうときインスト系に耳が向くんですよね。しみる音楽てのはけっこうアコースティックだったりする。しかしスウィングアウトシスターのアメリカライヴ盤が出てたなんて知らなかったぞ!輸入盤店どうなってんだっ!日本人が支持しなくてどうする!あんなにいい音楽作ってんのになあ。ジャミロクワイも歌はいいけど、あれはどうもアーチストも取り巻きも(スティング同様)あんましいい感じがしない。既に落ち目だけど(そういうときにアーチストは最高の境地にたっするもので)、更に落ちていくのが目に見えてくる。一方、落ち目なんて15年前に味わってるスウィングアウトシスターへの愛着は「インディーズ追っかけ」に似た感覚ももちろんあるけど、性格が音楽に出てるというか、とにかくほっとしていい気持ちになれる。ちょっと哀しくも嬉しいやわらかい夢を見れる。インコグニート追っかけてる人もそういう感じなんだろうな。しかしライブハウス慣れしてない客が多いので私はどっちも浮いてしまうのが辛いな(インコグはブルーノートでやるようになったので(いくとこまでいくとそうなるのだ)行かなくなったけど、最後は整理番号1番で当然スタンディング一番前の真ん中だったぞ、めちゃ巧いねーちゃんと歌いながら見つめて握手ってかんじでした)。スウィングアウトシスターも10年前からもうほぼ一番前の中央近くに陣取るようになったしな。にしてもフォローツアーがほしいとこです、二人で来てくれ(もともとライヴが苦手なメンバーが集まり、特に内省的なキーボードのアンディが来なかったのです、5月)。<br /><br />かんわゆーだい。<br /><br />でも、やっぱり夢を失ったときに夢の歌というのはきつかったりして、そういうとき聴くのが美しくない音楽・・・シェーンベルク派だったりするのだ。とくにベルクはしみる。そして何か、救いをもたらしてくれるのだ。これはたぶん、前向き思考の方にはわかんない感覚だろうな。絶望の意味がわかっている人は、ああいう音楽の心境がわかってくれるんじゃないか。本質的に理知的なストラヴィンスキーやショスタコ末期はどうも、わからないけれども。Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/05928427561611033030noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-19911580.post-1134951640965195362005-12-18T16:09:00.000-08:002005-12-18T16:20:43.820-08:00天気雨?朝寒くていったん目覚めたとき、たしかにどんよりしとしと雨降ってたのに、改めて起きたらピーカンだった。。勿論誰に聞いても雨なんて降ってない。<br /><br />寒いのに、毛布を抜いて頭にグルグル巻きにしていた。ニット帽かぶって寝たのに足りなかったらしいが、意味がわからん(ただ、電気消したとたんに部屋の空気がさっと変わったので、体調悪くて動かない体をなんとかうつぶせにしたから何も見ないですんだ)。着信履歴の残らない着信がまたあった。新しい機種なのでバグなわけないと思うんだけど。昨晩、塀から飛び降りる丸い黒い霧みたいなのを見たのが気になる。たぶん詰め襟の中学生。<br /><br /><br />このままギボさんになってしまうのかオレは!?Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/05928427561611033030noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-19911580.post-1134920016762421122005-12-18T07:25:00.000-08:002005-12-18T07:33:36.770-08:00体調崩れまくり(20時から)ものすごい吐き気と頭痛でしにそう。確かに二日で三時間睡眠のうえ酒は飲んだがビール二杯にチューハイ一杯でこれではまったく情け無い(睡眠不足はいつものことなので理由にならん)。ぐるんぐるん回る頭と空腹なのに吐き気がして食えない状況でとりあえずほうほうのていで家につき、頭痛薬と胃薬と風邪薬を飲むが全く効かず。風呂入ると却って体が冷えてくるのにびっくり。風邪かよ!ヌル湯好きなのにどんどん温度設定を上げていかざるをえず、結局45度で意識を失いかける。<br /><br />だが体がなんとかあったまったせいかひょんに立ち直る。ただ暖房の無い部屋は依然寒い。頭痛がぶりかえしてきたのでこれは脳出血かと思ってみた鏡の中には真っ青な顔。ひい。頭をあっためるのだ。メディシンマンのニットキャップがあったのでかぶるとちょっとマシになった。寝るしかねえ。今寝るしかねえ。で、寝床を見ると、<br /><br />長い白髪が二本。<br /><br />・・・呪いかよ!<br />こんな私でも必死で懐疑主義的な気分を保とうとしている今日このごろである。。Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/05928427561611033030noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-19911580.post-1134837684370312552005-12-17T08:21:00.000-08:002005-12-17T08:41:24.393-08:00ウタダだめだなーとおもってたんだけど、新曲はなんかじわじわゾワゾワきた。この子本質的には暗く思索的な人間だと思うけど(親譲り?)、まあ完全に自分で全部書いてるかどうかわからないが、かなり「実験的な方向」に向かっていて、こんかいの曲もスネア群にまるで十二神将のように囲まれてひたすら平坦な「語り歌」を旋律的に載せていく。とうてい売出し中の新人にはできない実験である。でも、なんかこういうパーカスのしかも限られた種類の打音をメインに据えて、言葉ヅラ(姉歯のことではない)だけではアフリカンな源流音楽の猿真似、あるいはヨーロッパ半島の北のほうできかれるような類のプリミティブな音楽を志向しているかのように聞こえるけれどもそうではなく、ちゃんと注意深く新しい音を重ねてなんとなく歌謡曲のふうもとっている。(最初のころのように)狙ってない、才能だけで書いていない、しかし才能が無ければこんなもの書かない。売れないと思うけど売れるんだろうなあ。俺は買ってもいいと思った。編成の見た目で惹かれたというのもあるので音だけでどう伝わるかわからんが、歌詞が妙にいいのも最初の曲からみんな感じていたことだろうね。今回の歌詞はいいな。<br /><br />って書いてたら壁から一枚の写真が剥がれ落ちて背中に張り付いた。牛。なんか意味あるかもしれないのでリヒャルト・シュトラウスの書簡の上に置いておく。ぜーたく。<br /><br />(実は昨晩のヲカ的な「現象」をこのあと書いていたのだが、突然その部分だけ消えてしまったので、消えたままにしておきます。4時半に現れた「息吹」をする小男のこと。あ、また消えそうだっ・・・更新だっ)Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/05928427561611033030noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-19911580.post-1134833384911218712005-12-17T07:21:00.000-08:002005-12-17T07:29:44.920-08:00死が固められてゆくことに対する嫌悪的雑感「恋のから騒ぎ」でぜんぜん笑えなくなった私はスマステ派だなー(今日は「受けたい授業」からの流れでこっちを見てしまってる。<br /><br />養老さんも悪趣味な気がしますよ。テレビで人体全身標本出すのって、前も話題になったけど(今回も局部は隠してましたな)、やっぱり養老さんがらみだった気がする。今「きがす」でうっかり変換したら「希ガス」て出た。大嫌いなネトヲタ用語。で、養老さんて奇形児プラスティネーション標本を鞄に入れて講演会なんかに持ち歩いてるんですってね。まさかそんな世の中がくるかいな、って思ってたらほんとにそうなってきた昨今の日本、たとえば絵に描いたような拝金主義とか、ほんとにゲームリセット感覚で生命にせっする子供のみならず大人たち、しかし思うのだが、「100円ショップで小さいナイフ買って、首のここ切ったら死ぬんだよ。でも、100円でその命を取り戻せるかい?」余りに当たり前な禅問答で「そういう言い回しもあるか」程度に思ったけど、ふと思ったのだ。これで「はっ、と気がついた」なんて人が、ほんとに いるのかもしれない。<br /><br />だからこうしてテレビで殺人法について公言しているのか。<br /><br />怖い世の中だ。<br /><br />社会的影響力の大きいこの人のエキセントリックな言動文筆(口述筆記?)活動に正直、余りいい感じがしていなかったのだけれども、「いい感じがしない」というそもそもの感覚が麻痺している人が多いからこそ、<br /><br />殺しちゃいけない。<br /><br /> 死は取り戻せない(1分1秒でさえ時間をさかのぼることができないのと同じに)。<br /><br />なんて当たり前のことをいろんな言い方とインパクトある表現方法で訴えているのだろうか。<br /><br />医師医学者というのは微妙なところで、「壁に耳あり」なんて言って検体の切断した外耳を壁に貼り付けて退学になった(はずはないのだがそういう噂に発展している)医学生の噺なんてのは、或る程度感覚を麻痺させないとできない「とうてい常人の感覚ではできない汚く辛いことを仕事としてやっていく特殊な職種」ならではの側面を象徴していて、これは確かに仕方ない側面がある(だからこそ多少宗教的なものも含めモラル教育を「再度」施す必要性が言われるようになってきたわけだが)。だが別に人の生き死にを職業的に請け負わなければならないわけではない一般人にそんな麻痺感なんていらないのだ。それが、恐らく情報過多と過剰に過激化する娯楽物資によって、特に暇で好奇心旺盛な子供の感覚を鈍らせているのか?<br /><br />正常な感覚の再喚起に・・・しかし「芸術的な」プラスティネーション標本は役立っているのだろうか? 「人体の神秘」展がらみで昔も書いたことだが(胎児食パフォーマンスや死体キメラアートの話書いたのってここだよね)、そういう扱い方って、寧ろ逆に好奇心を煽るだけなのではないか?「死者の尊厳」を「アーティスティックで美しい死体」という形で表現する、というのは形而的すぎて、「見た目の表面しか捉えず読みも聞きもしない」子供の類には全く伝わらないのではないか?私は一時期この世界によく触れていたが、最終的な判断として、<br /><br />きもちわるい。<br /><br />というところに落ち着いた。原初的な「(自他共に)死を忌む」感覚に立ち戻ったのであり、決して「死者が気持ち悪い」という感覚を得たわけではない。関連書籍のたぐいもすべて生ゴミとして出したし(ゴミ屋さんごめん)、一切見に行くこともなく、写真のたぐいすら嫌う。だからといって養老さんのものは超速読で読んだりはしているけれども、前に書いたような本職の人が自己防衛的に持っている「麻痺する能力」が前提になっているような気がして、ちょっとぞわぞわするのである。 伊集院さんがまじめに自分も死んだらプラスティネーション標本・・・番組では現代のミイラといっていたがそれは適切な表現なのか?それこそ主観的に時間を止める行為で至極利己的だ・・・になりたいと言っていた。この人は非常にまじめで深く考える人なので、多分軽々しく言っているのではなく純粋に (サブカル擁護の人でもあるようなので)そう思ったのだろう。<br /><br />私はもし死後こういう施術を施されるとしたら、キリスト教的な天国(か煉獄かしらんが)にさっさと行ってしまいたい。体液がすべて樹脂と置換されるさま、食肉解体のように機械的に切断され皮を剥がれて固められていく(「他者の手によって人工的に」だ)さまを思うだけで身の毛がよだつし、それこそ死者の尊厳を損なっている感覚がしてならない。<br /><br />形だけを残すことに何の意味があるのか?<br /><br />医学標本としてでなく「アート」として見世物になるということに、これは自己の問題としてだけではないと再度断っておくが、「友人の首をホルマリン標本にした少年」(最近の事件を想起されるかもしれないがこれは戦後くらいの事件だった)の感覚に似たものを感じて非常に怖いのだ。架空の話だが「羊たちの沈黙」のレクターを思い出して欲しい、そういう感覚に通じてはいないか。「麻痺」ですらなく、もとより「当然」なのである、そういう感覚が育ってしまうのではないか、ある種の人間には。子供には。<br /><br />火葬ですら私はぞわぞわする人なので、できれば風葬や土葬にしてほしい。人間らしい尊厳をもっとも取り入れた自然な死への対峙の仕方だと思う。また九相図絵巻のような「かえりゆくもの(物理的には変わりゆくものだが)」を見ることこそ、ほんとうの「死への感覚」を育てるのだと思う。こうなること、こうさせてしまうことの恐怖を植えつけることが、いちばん「効く」と思うんだけどね。<br /><br />ただこれも逆にある種の人々・・・生来の本質的なサディスト・・・に変な「煽り」を与えてしまうかもしれない。「死んでしまったもの」へ接することよりも、死を前に死から逃れようとする人の真実の姿に接すること、死病で苦しみもだえる人を介護させることで身につくのかもしれない。どうやったって「脳の根元から違う人々」は救えないわけで、全員救うことは無理だとしても、他者に害をあたえるたぐいの人々を煽るようなことはあってはならないし、そういう人々は法の力で力ずくで押さえつけるべきだが。 とりとめもなくなってしまった。こんなマジな話になるとは。 言いたかったことはこれだけ。<br /><br />養老さん、同じネタの使いまわしはやめようよ。Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/05928427561611033030noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-19911580.post-1134704613397638862005-12-15T19:41:00.000-08:002005-12-15T19:43:33.403-08:00そしてピーガブのDVDにハマる<a href="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/1600/pg001.jpg"><img style="FLOAT: left; MARGIN: 0px 10px 10px 0px; CURSOR: hand" alt="" src="http://photos1.blogger.com/blogger/760/1843/400/pg001.jpg" border="0" /></a>Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/05928427561611033030noreply@blogger.com0