Thursday, December 15, 2005

2005年10月29日◆多摩川で野蒜を焼き

焚火で温んだ酒を喰らう。 博浪会の冊子をめくっていると昭和16年2月早々追悼の二冊のなかに夢声の万感のいち文があった。雑草は何でも味噌で喰えるといって其会も開いていた貢太郎氏、酒に生き酒でびんぼうをし酒に死んだ故人への随想の形をとった最大の賛辞である。

万感、というのはただ想いでをつづり一言「それもついに空しである」で締めてある。莫と、語ることがないとして独自の風格があるとだけ置いた菊地寛とは格段の言外の想である。我が祖父や父によれば貢太郎の名は前に私の書いたような大衆小説家なんかではない、立派な文筆家で通っていたようである(同郷の者の贔屓目というわけではない)。だから菊地の態度には多分に意識的なものがあるように私には感じられた。自らが認めてやった人物であるにもかかわらず対抗するかのような私誌(じっさいは周辺弟子同人のものであるが)を立ち上げた男、野人と号された文壇の異彩児への圧倒の意さえ感じられた。反骨の士の燭の消えるがごとき哀しき枯淡の境を思うと無粋な編者の、権威菊地になど頭文を能わせる粋のなさに胆落つるところもある。接いでに言うならば氏独特の面白いあて字は癖のようなもので、源は中国小説にあるものだそうだ。漢籍への造詣も当代文士に比類無きものであった。

門前で声をかけ布団の中から反ってきた返事で容態を確かめる、高知新聞社三村氏の追憶、去世の三日前「何ちやあぢやなかつたきにのう」とぽつりと遺していったというが、確かに昏睡のとき流れた一すじの涙の拭われたあと、円満無比の相好の死に顔は牡丹の篭火を架かげた上臈に手をとり連れ逝かるる氏らしい解脱の相であったと思いたい。なき崩れるつま子らにはすまなそうな様子をして。旧友は口を揃えて何の心のこりもなかった筈だと言ったそうだ。三村氏は心のこりどころか、あの世へお釣り銭まで持っていった男だと口を添えた。浦戸の湾には厳かに「じゃん」が響いたことだろう。

泰平の時代のことを想う人もいた。この雑誌も末期は戦意高揚広告が目立つ。吐血後静養として死の前年後にした東京の屋だが、「東京は旅ぢや」「もう東京はさつぱり思い切った。むづかしい物は書かいでも、すきな随筆などを書いて、小遣いを取ればよい。子供達も、もう一人前になつて、手がかからんきにのう」の言に常よりの熱い郷里愛、推して知るべしだろう。晩年は名随筆家として知られた氏が「坂本龍馬を書くために、郷里で材料を集めている。田舎に居ると生活費もかからぬから、ゆつくり長編が書ける」という死去前の池上会での台詞、旋風時代は過ぎ去らず未だ伝記小説へ意欲を燃やしていたのだなとも思う。高知県立図書館長の想い出にも龍馬の話が出てくる。郷里の志士伝への思いはえんえんとしてあった。死の数日前まで娘に大量の資料筆写を持ってこさせていたという。

ひとによりまた印象も違うのだなと夥しい追悼文をつら読みながら、その例の少なくないことにも思いを巡らせた。最後の会の場で、もう好きな瀧嵐も司牡丹も呑めない貢太郎翁に気付いた弟子がいた。「こちらもうつかり馬鹿話にふけつているうちに、気がつくと、先生は広い座敷の向ふの隅の、座布団を積み重ねたところで、横になつて、しんと、こちらを見てをられた。その距離に、私はと胸を突かれるやうであつた。ーあの部屋隅の座布団の山を思ふと、たまらなくなる。」

それは余りに淋しいではないか。我が育てた稲穂の黄金の揺れるさまを見守るだけで、誰にも顧みられることのない、モウただの一本の野蒜なのである。死んでからでは、遅い。

・・・その野蒜が枯れはて土に帰らうところで抜いて喰う酔狂らもいる。ここ数年の再評価はしかし昭和大衆伝奇小説家としての氏に寄せるものでしかない。もし読まれていないのならばこの雑誌の追悼号を読まれるがよい。日吉早苗氏の「幻想の桃葉先生」は名筆である。ここに矍鑠たる明治の幻想文学、ヘルン先生らの流れの末と、それを確と伝えられた貢太郎氏の偉大さを垣間見られよう。そして山崎海平氏の採った語録(どれも至言である)に浅薄な大衆作家などではけしてなかったことも窺い知ることができるだろう。

61の誕生日、雛祭りの日にレインボーグリルで行われた追悼会では、発起人尾崎士郎氏のもと菊地寛、井伏鱒二、吉川英治らより追憶の説が語られた。太宰も胡堂も犀星も梢風もいた。中央公論から選集が発行の旨が書き添えられている。「林有造の伝」が完成していながら生前出版至らなかった無念を譲治氏がつづっている。

静養のため帰郷して後目黒の家に住んだ義理子は氏を奇人酒仙と呼びならわす世間には知られえなかった一面を書き添えている。「父はもはや、疲れきっていたのである。ものを書くことにも一向気乗りがしなかったやうである。「土佐へ帰って、何もせんでいて魚釣りをして暮らしたい」と、死のニ、三年ぐらい前から家族に語っていたという。が、その土佐の生れ在所に帰っても、とうとう父は念願の魚釣りもやらずに逝ってしまった。父にとっては、おそらく、坂本龍馬傳の完成をみなかったことよりも、もっとそれは残念なことであったろう。」遠山氏は三年前の結婚の許しがあまりに簡単だったことを妻である長女に話すと、「父も昔の父とちがって・・・」気が弱くなってきた、と泣いたとも書いている。

最後の博浪への寄稿は15年8月五巻九号のニページである。帰郷直前といったところか。事物をならべただけのものではあるが流石随筆の逸話には事欠かず、臭いロシア人詩人の話のあとに日新聞という出版社ででくわしたハーフの作家志望者のことが書いてある。原稿が旨く面白いから中央公論の瀧田氏のところへ連れていったところ連載が決まり、非常に喜んで晩餐会を催すも滅多に早く来たこともなし、食事は済ましてきたというふうだから瀧田氏ともども応援を止めた。しかしそういうものだと流すところに依然として風流粋がある。

ところでハーフの若者は逆に氏をこううつしている。「布袋様のやうだつたが、これが田中貢太郎だつた。その時貢太郎が俺の小説を見て、旨いゝとつゞけ様に赤い舌をべろゝと二度出した。」ああ、貢太郎はこうでなくては。

~博浪沙・田中貢太郎追悼号を読んで(某コミュニティより転載)~

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