Saturday, December 31, 2005

あけまして。


jpg圧縮だとピンク系がうまくでないので、けっきょく年賀状に使った一つを流用することにしました。 ついでにいちおうメール用に作った崩れようの無い手抜きバージョン。意味通じてへんわ。


えきでんだからさらについでに。


さよなら2005.・・・あっこれアメリカ時間じゃないか!まだ大晦日かよ!

Monday, December 26, 2005

優雅で感傷的な輪舞

中沢新一さんの番組、いいなあ。なんかほのぼのとして、でも死の気配がして、なつかしい生活の記憶が東京の底から浮かび上がって、空にぽかん、とうかぶむら雲のように、ほっこりと残る。 青空のした、かつてススキの原野だったアスファルトの大地に立って、綿菓子の雲を見上げながら立ち止まる。子雀が二羽とんできて、油臭い地面を跳ねまわっている。まるで輪舞のようだ。かたはらを車が迷惑そうに徐行する。雀がひょいと脇にそれてまた輪舞を始める。 なぜかよくわからない涙が溢れて止まらない。なんて平和な日なんだろう。風は冷たくてもひのひかりはやさしく体を包み、まるでここがススキが原に戻ったような、雀たちの無邪気に戯れるさまに、この地霊の懐かしい記憶がうつってしまったかのように、静かに涙を流した。 枯れ野を懐かしむ大地の上で、ぼくは新しい記憶を刻みこむ。この記憶を、遠い未来にまた懐かしむ人が現れるのだろう。 僕はすこし嬉しくなり、下手なステップを踏むと、そそくさと職場へ戻った。

Saturday, December 24, 2005

幻覚ミサ

醒めていた。

例年のことでありながら今年は何故かまったくの喜びも感傷もなく、ただ至極物質的な感性のままに天井のオジーブを見上げていた。祭壇の後ろに掲げられた簡素な十字架も、単なる木の彫像であった。長年の思い出の染みた壁も椅子も床も、新しく作られた神秘的なマリアの泉も、ただ綺麗で写真ばえのする素材としか思えなかった。

ミサが始まった。私はたんたんと歌いながら、寒い席を一覧していた。オルガンの音が宙に消え入る。座るように促され、皆とともに説教を聞き始める。そして私はにわかにまどろみはじめた。もう、私はキリスト教者ではないのかもしれない。それはさびしくもなんともなく、ただ退屈であった。私は、ゆらゆらと揺れていたらしい。

ゆらゆらと揺れる景色と、妙に安心しきった私のうつろ目に、奇怪なものがうつった。

それは降誕節の歌をうたっているときであった(私は長く音楽に傾倒していたせいか弾いたり歌ったりしながら眠ることがある)、モウ「落ちて」しまいそうな私の横を、巨大な白いものが通り過ぎたのである。

それは教会中央の緋毛氈の上をまっすぐ祭壇のほうへと向かっていた。ものすごく巨大な、白い人であった。体積だけを計算したら、通常の人の何十倍もあるだろうか。生白いローブをまとい、厚いフードを深く被って背を丸め、気がつくとぬっぬっと「歩いて」いたのである。背後からしか見えなかったので顔もなにもわからない。その衣装は簡素で、丁度司祭のぞろっとしたお偉い服に生活感を垂らしたような、しかしなんとなくもっと良いものであった。胸から下は前の人の頭で見えなかったが、たぶん緋毛氈の下にあったはずである、なにせものすごくでかかったのに、オジーブの木枠に頭を擦らなかったのだから。

私はぎくっと目が醒めた。

覚めた。何事もなく空疎なミサの次第がつづいていた。老いた司祭はのんびりと祭壇の後ろで手を広げている。すべては何十年も見てきた決まりごとであり、わかりきったことであり、やはりここにあるものはすべて「物質」にしか見えず、昨年までの神秘的な感覚は失われていた。居並ぶ少年の茶色いローブの下から覗くデニムの裾が拍車をかけた。でも私は別の意味で覚めていた。いや、至極奇妙なものを見た、それだけのことで、あとの1時間はまんじりともせず、呆然と教会の空気を吸っていたのである。

これは幻覚であろう。でも、幻覚は時としてそうでないものとコラボをする。あれは何だったのか、「誰」だったのか?数十年、クリスマスミサに参加していて初めて見た、何か神秘的なもの、この場所で何十年も祈ってきた人々の思いの集った、精霊だったのかもしれない。

怪談はキライだ

ブンガクはキライだ。

・・・と書き出す時点で文学を肯定しているようだが、文学なんてもんは存在しない。そこには文字列とフォーマットだけがある。器に過ぎないものに、何を盛るか、それがたまたま「人を怖がらせる」というものであれば、それらしいものを見繕ってきて、見栄えよく飾るだけで、たいていの発信者はそれがブンガクだとさけぶ。器は音の形をしているかもしれない。色彩と描線によって構成されているかもしれない。そこに面白さとかゲイジュツセイとかを求めるのであれば、盛られているものを食べてみないとわからない。見栄えだけ求められていると感じること、それは現代日本の薄氷のような文化形態を肯定しているだけだ。マニアは集まれど、普通の人は集まらない。

まるで水木ファンクラブのような「怪」をはじめとして、好きだった怪奇系雑誌に次々と裏切られるにつけ、「怪談はキライだ」と声高に叫びたくなってくる。オウム後のぐつぐつとした潜伏期間をへてオカルトが解禁になり、堰を切ったかのようにジャパニーズホラーとかいう映画や小説が量産されるようになった現代、何故かそれがどんどんと、味のないものになっていくように思えて仕方ない。音楽については学生時代から言ってきたことだが、技術技巧が「言いたいこと(言うべきこと)」を上回っている状態をよしとするような、中身を求めない風潮はどうかと思うのだ。

ホラーはキライ、だいたい作り物や脳内ものに何も魅力を感じない人間なのだからしょうがない。私は見栄えに興味は無い。純粋な好奇心とイマジネーションを喚起する要素として怪奇ものが適切だから関心を寄せているだけなので、写真だとか証拠だとか、ましてや恐怖を煽るギミックや技術的なものに全く左右されない人間である。

「幽」にはガッカリした。正確には、やっと本音が出てきたか、という部分があったのである。それはよりにもよってオカルトを素材としてしか見ていない・・・否定派と言ってもいい京極、ブンガクとしてしかとらえていない東、そして「表向きは実録」怪談作家として名をなした木原氏による鼎談である。ここにはそれぞれが歩み寄りもせずそれぞれのすれ違いが変な具合に露呈している。だが一致している点がある。

みんな、ほんとうのことはどうでもいいのだ。

私は本当のことが知りたい。毎晩ドアノブを回す者が誰なのか知りたい。一晩中部屋をうろつく影のことが知りたい。病気でもないのに寝込むようになった原因を知りたい。それはオカルトでもなんでもいいのだ、理由が知りたいだけだ。その味の正体が知りたいのだ。

木原氏が共著した新耳袋が十数年前に上梓されたさい、その表採方法に民俗学的な主観を入れない(ように見せかけて恣意的に巧みに配置した)羅列手法と江戸話的な随筆手法・・・理由も何もなくただ断章をつらねる・・・が取り入れられ、しかも内容がまだ一般的でなかった都市伝説というものに「突っ込んで」触れていたために、当時本家耳袋などに親しんでいた私は非常に興味を持った。それは一部で話題にはなったが、当時まだ落語的なオチを持つ70年代的怪談が主流だったためすぐ絶版になったように記憶している。バブル崩壊後に復刊され、そこには「敢えて削った話」という確信犯的手法で続巻を期待させる「引き伸ばし」があったせいか、爆発的に売れたのはホラーファンなら誰でも知っていることだ。私の手元にはその版が残っている。同じ話を別な形に編纂して別本に出すというあざとい手法に若干疑問を感じだしながらも、最初の3巻くらいまでは、十分に「新しい」ものとして読むことができた。

だが何か違和感を感じ出して買うのを止めたのはジャパニーズホラーブームの火がつく前だったと思う。結局、70年代的怪談に戻ってしまったような感じがしたのだ。同じ話を引きに引いて続きを買わせる手法、同じような話の連環、ひいては「千手観音の写真」にいたっては辟易していた。この人ははなから確信犯だったのだ。信じちゃいない。「手法」だけなのだ。とても巧みな器だけなのだ。盛られているものは大したもんじゃない。私は現代怪談全般にあふれる「ビジュアル先行」イメージと全く同じ根を持つようにも思った。そのころから殆ど現代怪談ものを読まなくなった。

その木原氏が、言葉を選びながらもしょせん、怪談は創作だと言ってしまっている。京極さんの手にうまくのせられている。しかもこの雑誌、ホラー小説雑誌と実録雑誌の境界線をちょっと高尚な位置で探るという新規性が売りだったのに、ここで結局宣言されていることは、「これはホラー雑誌であり、ホラー小説を募集します」ということなのである。表紙の装丁にも辟易とした。余りに現代的だ。

松谷さんのような人を持ってきているし、漫画にかんしては最高クオリティといっていい。だから買うことに躊躇はないのだが、中岡さんやつのださんが散々とりあげた鬼怒川温泉をいまさらK温泉として出してみたり、幽玄の雰囲気があるだけの場所をまるで某スピリチュアリストのように殊更に取り上げて、無理やり怪奇スポットに仕立てている。どうせならギミカルにブブカのような線をいけばいいものを、ブンガクのラインで仕立てようとしているところがまた、露骨に目についてしまうのである。ついに鏡花を出してしまったところなどあきらかに創作文芸におもねっている。次はあるのか?

この雑誌は文芸雑誌である。怪談集だ。

私はブンガクはキライだ。
怪談はキライだ。

Wednesday, December 21, 2005

ガクガクー!

レコードをMP3にダビングしてたら途中で操作誤ったらしくて三時間損した!
ちなみにシュヒターの第九(季節ものだね)、旧ボロディン弦楽四重奏団のシベリウス「親愛の声」、パスカル弦楽四重奏団のアメリカでした。とりあえずHDプレイヤー(といいつつバックアップHDとしても使っているが)60GBまであと8Gになってきたので、わけわからなくなった音源とか消さないとなあ。でもMP3からの変換がうまくいかないことが多いんですけど東芝さん!音質は満足なんだけどねー。マニアはiPODは使わないのです。sonyがいいそうだけど(音質は好き好きだな)、gigabeatユーザはまだシフトしないでいいかなってかんじ、つーか、ボーナス半分消えたんでもう買えないけどさ。

最近またクラシック脳が活性化しつつある。どうも直接的な歌モノというのは聴きたくなくなる場合がときどきあり、そういうときインスト系に耳が向くんですよね。しみる音楽てのはけっこうアコースティックだったりする。しかしスウィングアウトシスターのアメリカライヴ盤が出てたなんて知らなかったぞ!輸入盤店どうなってんだっ!日本人が支持しなくてどうする!あんなにいい音楽作ってんのになあ。ジャミロクワイも歌はいいけど、あれはどうもアーチストも取り巻きも(スティング同様)あんましいい感じがしない。既に落ち目だけど(そういうときにアーチストは最高の境地にたっするもので)、更に落ちていくのが目に見えてくる。一方、落ち目なんて15年前に味わってるスウィングアウトシスターへの愛着は「インディーズ追っかけ」に似た感覚ももちろんあるけど、性格が音楽に出てるというか、とにかくほっとしていい気持ちになれる。ちょっと哀しくも嬉しいやわらかい夢を見れる。インコグニート追っかけてる人もそういう感じなんだろうな。しかしライブハウス慣れしてない客が多いので私はどっちも浮いてしまうのが辛いな(インコグはブルーノートでやるようになったので(いくとこまでいくとそうなるのだ)行かなくなったけど、最後は整理番号1番で当然スタンディング一番前の真ん中だったぞ、めちゃ巧いねーちゃんと歌いながら見つめて握手ってかんじでした)。スウィングアウトシスターも10年前からもうほぼ一番前の中央近くに陣取るようになったしな。にしてもフォローツアーがほしいとこです、二人で来てくれ(もともとライヴが苦手なメンバーが集まり、特に内省的なキーボードのアンディが来なかったのです、5月)。

かんわゆーだい。

でも、やっぱり夢を失ったときに夢の歌というのはきつかったりして、そういうとき聴くのが美しくない音楽・・・シェーンベルク派だったりするのだ。とくにベルクはしみる。そして何か、救いをもたらしてくれるのだ。これはたぶん、前向き思考の方にはわかんない感覚だろうな。絶望の意味がわかっている人は、ああいう音楽の心境がわかってくれるんじゃないか。本質的に理知的なストラヴィンスキーやショスタコ末期はどうも、わからないけれども。

Sunday, December 18, 2005

天気雨?

朝寒くていったん目覚めたとき、たしかにどんよりしとしと雨降ってたのに、改めて起きたらピーカンだった。。勿論誰に聞いても雨なんて降ってない。

寒いのに、毛布を抜いて頭にグルグル巻きにしていた。ニット帽かぶって寝たのに足りなかったらしいが、意味がわからん(ただ、電気消したとたんに部屋の空気がさっと変わったので、体調悪くて動かない体をなんとかうつぶせにしたから何も見ないですんだ)。着信履歴の残らない着信がまたあった。新しい機種なのでバグなわけないと思うんだけど。昨晩、塀から飛び降りる丸い黒い霧みたいなのを見たのが気になる。たぶん詰め襟の中学生。


このままギボさんになってしまうのかオレは!?

体調崩れまくり(20時から)

ものすごい吐き気と頭痛でしにそう。確かに二日で三時間睡眠のうえ酒は飲んだがビール二杯にチューハイ一杯でこれではまったく情け無い(睡眠不足はいつものことなので理由にならん)。ぐるんぐるん回る頭と空腹なのに吐き気がして食えない状況でとりあえずほうほうのていで家につき、頭痛薬と胃薬と風邪薬を飲むが全く効かず。風呂入ると却って体が冷えてくるのにびっくり。風邪かよ!ヌル湯好きなのにどんどん温度設定を上げていかざるをえず、結局45度で意識を失いかける。

だが体がなんとかあったまったせいかひょんに立ち直る。ただ暖房の無い部屋は依然寒い。頭痛がぶりかえしてきたのでこれは脳出血かと思ってみた鏡の中には真っ青な顔。ひい。頭をあっためるのだ。メディシンマンのニットキャップがあったのでかぶるとちょっとマシになった。寝るしかねえ。今寝るしかねえ。で、寝床を見ると、

長い白髪が二本。

・・・呪いかよ!
こんな私でも必死で懐疑主義的な気分を保とうとしている今日このごろである。。

Saturday, December 17, 2005

ウタダだめだなー

とおもってたんだけど、新曲はなんかじわじわゾワゾワきた。この子本質的には暗く思索的な人間だと思うけど(親譲り?)、まあ完全に自分で全部書いてるかどうかわからないが、かなり「実験的な方向」に向かっていて、こんかいの曲もスネア群にまるで十二神将のように囲まれてひたすら平坦な「語り歌」を旋律的に載せていく。とうてい売出し中の新人にはできない実験である。でも、なんかこういうパーカスのしかも限られた種類の打音をメインに据えて、言葉ヅラ(姉歯のことではない)だけではアフリカンな源流音楽の猿真似、あるいはヨーロッパ半島の北のほうできかれるような類のプリミティブな音楽を志向しているかのように聞こえるけれどもそうではなく、ちゃんと注意深く新しい音を重ねてなんとなく歌謡曲のふうもとっている。(最初のころのように)狙ってない、才能だけで書いていない、しかし才能が無ければこんなもの書かない。売れないと思うけど売れるんだろうなあ。俺は買ってもいいと思った。編成の見た目で惹かれたというのもあるので音だけでどう伝わるかわからんが、歌詞が妙にいいのも最初の曲からみんな感じていたことだろうね。今回の歌詞はいいな。

って書いてたら壁から一枚の写真が剥がれ落ちて背中に張り付いた。牛。なんか意味あるかもしれないのでリヒャルト・シュトラウスの書簡の上に置いておく。ぜーたく。

(実は昨晩のヲカ的な「現象」をこのあと書いていたのだが、突然その部分だけ消えてしまったので、消えたままにしておきます。4時半に現れた「息吹」をする小男のこと。あ、また消えそうだっ・・・更新だっ)

死が固められてゆくことに対する嫌悪的雑感

「恋のから騒ぎ」でぜんぜん笑えなくなった私はスマステ派だなー(今日は「受けたい授業」からの流れでこっちを見てしまってる。

養老さんも悪趣味な気がしますよ。テレビで人体全身標本出すのって、前も話題になったけど(今回も局部は隠してましたな)、やっぱり養老さんがらみだった気がする。今「きがす」でうっかり変換したら「希ガス」て出た。大嫌いなネトヲタ用語。で、養老さんて奇形児プラスティネーション標本を鞄に入れて講演会なんかに持ち歩いてるんですってね。まさかそんな世の中がくるかいな、って思ってたらほんとにそうなってきた昨今の日本、たとえば絵に描いたような拝金主義とか、ほんとにゲームリセット感覚で生命にせっする子供のみならず大人たち、しかし思うのだが、「100円ショップで小さいナイフ買って、首のここ切ったら死ぬんだよ。でも、100円でその命を取り戻せるかい?」余りに当たり前な禅問答で「そういう言い回しもあるか」程度に思ったけど、ふと思ったのだ。これで「はっ、と気がついた」なんて人が、ほんとに いるのかもしれない。

だからこうしてテレビで殺人法について公言しているのか。

怖い世の中だ。

社会的影響力の大きいこの人のエキセントリックな言動文筆(口述筆記?)活動に正直、余りいい感じがしていなかったのだけれども、「いい感じがしない」というそもそもの感覚が麻痺している人が多いからこそ、

殺しちゃいけない。

死は取り戻せない(1分1秒でさえ時間をさかのぼることができないのと同じに)。

なんて当たり前のことをいろんな言い方とインパクトある表現方法で訴えているのだろうか。

医師医学者というのは微妙なところで、「壁に耳あり」なんて言って検体の切断した外耳を壁に貼り付けて退学になった(はずはないのだがそういう噂に発展している)医学生の噺なんてのは、或る程度感覚を麻痺させないとできない「とうてい常人の感覚ではできない汚く辛いことを仕事としてやっていく特殊な職種」ならではの側面を象徴していて、これは確かに仕方ない側面がある(だからこそ多少宗教的なものも含めモラル教育を「再度」施す必要性が言われるようになってきたわけだが)。だが別に人の生き死にを職業的に請け負わなければならないわけではない一般人にそんな麻痺感なんていらないのだ。それが、恐らく情報過多と過剰に過激化する娯楽物資によって、特に暇で好奇心旺盛な子供の感覚を鈍らせているのか?

正常な感覚の再喚起に・・・しかし「芸術的な」プラスティネーション標本は役立っているのだろうか? 「人体の神秘」展がらみで昔も書いたことだが(胎児食パフォーマンスや死体キメラアートの話書いたのってここだよね)、そういう扱い方って、寧ろ逆に好奇心を煽るだけなのではないか?「死者の尊厳」を「アーティスティックで美しい死体」という形で表現する、というのは形而的すぎて、「見た目の表面しか捉えず読みも聞きもしない」子供の類には全く伝わらないのではないか?私は一時期この世界によく触れていたが、最終的な判断として、

きもちわるい。

というところに落ち着いた。原初的な「(自他共に)死を忌む」感覚に立ち戻ったのであり、決して「死者が気持ち悪い」という感覚を得たわけではない。関連書籍のたぐいもすべて生ゴミとして出したし(ゴミ屋さんごめん)、一切見に行くこともなく、写真のたぐいすら嫌う。だからといって養老さんのものは超速読で読んだりはしているけれども、前に書いたような本職の人が自己防衛的に持っている「麻痺する能力」が前提になっているような気がして、ちょっとぞわぞわするのである。 伊集院さんがまじめに自分も死んだらプラスティネーション標本・・・番組では現代のミイラといっていたがそれは適切な表現なのか?それこそ主観的に時間を止める行為で至極利己的だ・・・になりたいと言っていた。この人は非常にまじめで深く考える人なので、多分軽々しく言っているのではなく純粋に (サブカル擁護の人でもあるようなので)そう思ったのだろう。

私はもし死後こういう施術を施されるとしたら、キリスト教的な天国(か煉獄かしらんが)にさっさと行ってしまいたい。体液がすべて樹脂と置換されるさま、食肉解体のように機械的に切断され皮を剥がれて固められていく(「他者の手によって人工的に」だ)さまを思うだけで身の毛がよだつし、それこそ死者の尊厳を損なっている感覚がしてならない。

形だけを残すことに何の意味があるのか?

医学標本としてでなく「アート」として見世物になるということに、これは自己の問題としてだけではないと再度断っておくが、「友人の首をホルマリン標本にした少年」(最近の事件を想起されるかもしれないがこれは戦後くらいの事件だった)の感覚に似たものを感じて非常に怖いのだ。架空の話だが「羊たちの沈黙」のレクターを思い出して欲しい、そういう感覚に通じてはいないか。「麻痺」ですらなく、もとより「当然」なのである、そういう感覚が育ってしまうのではないか、ある種の人間には。子供には。

火葬ですら私はぞわぞわする人なので、できれば風葬や土葬にしてほしい。人間らしい尊厳をもっとも取り入れた自然な死への対峙の仕方だと思う。また九相図絵巻のような「かえりゆくもの(物理的には変わりゆくものだが)」を見ることこそ、ほんとうの「死への感覚」を育てるのだと思う。こうなること、こうさせてしまうことの恐怖を植えつけることが、いちばん「効く」と思うんだけどね。

ただこれも逆にある種の人々・・・生来の本質的なサディスト・・・に変な「煽り」を与えてしまうかもしれない。「死んでしまったもの」へ接することよりも、死を前に死から逃れようとする人の真実の姿に接すること、死病で苦しみもだえる人を介護させることで身につくのかもしれない。どうやったって「脳の根元から違う人々」は救えないわけで、全員救うことは無理だとしても、他者に害をあたえるたぐいの人々を煽るようなことはあってはならないし、そういう人々は法の力で力ずくで押さえつけるべきだが。 とりとめもなくなってしまった。こんなマジな話になるとは。 言いたかったことはこれだけ。

養老さん、同じネタの使いまわしはやめようよ。

Thursday, December 15, 2005

そしてピーガブのDVDにハマる

2005年12月13日◆偉いなあ

隣におじいさんが座っていた。電車はそこそこ混んでいる。向かい合わせのシルバーシートが一席空いた。するとおじいさん、さっと立ち上がりシルバーシートに座り直した。隣には学生が座った。

偉いなあ。学生座らせることもないだろうに。それにつけ思い出すのは日曜の昼間、目の前に老人が立っているのに知らんぷりしてケータイをいじりたおしてたおばはんである。

二重にあかんやろ!

体調悪いでもないのにシルバーシートに座り続けるのも、ケータイ電源切れマークの下で平気でケータイいじってるのも!

あほ!

2005年12月09日◆エイズ検査のCM

東京都だけかな?夫婦が手つないで前見て並んでるやつ。あまり景色のよくないメガネ妻が「心あたりがある」しばし沈黙でいっこく堂みたいなダンナ「僕も検査行く、君が好きだから」あっついねぇ、てかんじなんだけど、 おめーら、揃って陽性だったらどないすんじゃい! 共に深刻な症状に陥ったとして、それでも好きでいられるかダンナ! 病はキレイゴトじゃない。検査を気軽に受けさせようとしてるんだろうけど、ちとキレイゴトすぎてんじゃねーの?キレイゴトばかり見せて危険を危険と思わせない無批判な態度が今の非常事態を呼んだんだろ?

2005年12月03日◆爆問・ギリアム対談をやっと見る

うわーーーーーーーあの色紙欲しーーーーーーーーー!!

地球の穴のホラ話なんてまさにギリアム世界だよ!!バロンだ!でも鉛筆のサインだってかっこいい。しゃれてる。さすがだ。前に来日したときはアキバなんかでカウボーイハットではしゃいでいたが、今回は京都なんか行って、すっかり貫禄のなりだ。いろいろあったしね。デモ中身は、子供のまま。すばらしい!

モンティパイソンはかなり70年代英国色が強くて気持ち悪いという先入観から見なかったのだが、昔衛星でよっぴきやったことがあっていくつか録画しておいた。そして見てたまげた。面白いや。シュールとかそういうことじゃなし、古きよきコント番組でもなし、そのままで笑える。十分今でも笑える!言葉でも動きでも!

そして未だにギリアムは役者であり漫画家だった。今回のハリウッド映画(脚本はムコウから与えられ・・・だからああいうファンタジーになった)で、何故か今までと違う(?)VIP待遇の来日インタビューが多かった中、ちょっと前半編集で切りすぎだけれども、いちばん充実してたな。やっぱ太田さん読みが深いしわかりやすいよ。これで英語さえしゃべれればねえ。。映画本なんて書いたらビートくんや人志なんかとは違う観念的でざっぱくなものでない、しっかりした評論本になるんだろうね。評論家向きなのかなあ。其処は違うだろ、ということも言うけども、反論を受けて立てるくらいしっかりした論点で向かってくる、好きなことにかんしては(それ以外ははっきり分かるように流す・・・そこが爆笑問題好きか嫌いかに分かれるところで、私もボキャブラ前からファンだったけどタレントとしてはそういうところは余り好きじゃない)凄く斬り込める刀を持っている。田中さんの意外といいとこ突いて来るところにも驚いたけど、知識量が尋常じゃないな。勉強好きの青なり瓢箪、浅草キッドと反目しつつも(実はかなりの勉強家な文字通り)博士とは似たところがある。二人ともいい評論家です。悪乗りという点で博士は行き過ぎる気もするけど(嘘はいかんです、でもそれも心底お笑い芸人としての意地なんだよね)。

日本のお笑いは「笑い」を軸にこういう広がり方をしてきたのがまたいいじゃないですか。ギリアムがたじろぐくらいの勢いで、閉口したのか感心したのか定かじゃないけど評論書いてくれと真顔で言うくらいの人がお笑いタレントですよ。そのへんのうらなり瓢箪評論家や作家さんにこんな芸当できますか?英語喋れなくても笑わせて巧みに入り込んでいく。まあ、淀川さんみたいにしゃれにならないくらいの経験と知識があれば別、水野さんみたいに存在自体が強烈であっても別(まあどちらも個性(ゲイ)ですな)、でもただ売れてるとか名前が大きいとかだけで対談組んでもらってるたぐいのタレント評論家にはこんなことできないでしょ。さわりくらいしか。

伊集院さんのラジオ対談も短い時間で違った角度から切り込んでたけど(余りに理性的だったけど感性が似ているせいかギリアムを感心させていたことは確かだ。伊集院さんは英語ちょっとわかるから更に滑らかになったというのもあるかな)、今やっぱり日本で一番熱い「知識人」は芸人だ。芸人がいろいろやることで諸世界に新たな一撃を与えていくことができると改めて思った。役者や識者や専門家にはできないことが彼らにはできる。

思えばたけしが自分でもそう言い続けてきていたように必死で「逃げ道」を作り探して行き着いた役者歌手そして終に映画監督、という見事な広がり。笑いの天才さんまはその天才ゆえにひたすら笑いの軸から微動だにせず・・・其処に最近限界を感じてる私なんだけど・・・さんまだって役者となればたけしに並んで話題を振りまく人で、「心はなんたら気持ちは・・・」とかいうドラマでやはり「お笑いの逃げ道」を切り開いていた(今はほとんどないのが残念)。鶴ちゃんが正月深夜のドラマで当時としては画期的な「お笑いがトレンディ役者として活躍する」シュールな姿を演じていたのも思い出される。そういうことができない芸人は見事に消えていった・・・「司会者」という世界を得られた職人的芸人は別として。

あれ、芸人論なんて語る気はなかったのに。ま、いいや。ギリアムは凄い人ですよ。そしてとてつもなく、優しい。絶望や恐怖で終わらせるか、予定調和的なハッピーエンドで終わらせるかしかない商業的映画界において、奇跡的に「後ろで長いベロを出してみせる」ことに成功している人の一人だ。ベロを出して孫に笑ってみせるのだ。突き刺すような作品も作るけど、バロンと12モンキーズ、そして私が初日に見て初めて名を知った「バンデットQ」の優しさはたぶん、論理で説明できるものではない。ほんとに見た後、優しさに涙の出る作品だ。

いつかまた「本気の作品」が見られることを期待しながら、対談をもう3回繰り返し見てしまいました。

しかし宮崎駿の名が出るとは思わなかったな。どうもあの変な精霊とかが理解できない、思いもよらないというのが寧ろこの人の碧眼を示している。そここそがたぶん、宮崎作品を辛うじて「子供漫画映画」から救っているキモなのだ。生ぬるい筋なんかじゃない。ああいう「アート」なのだ。ハリウッドに日本の漫画好きが多いとは聞くが、思えばサムライキャットなんかもギリアムに近いとこから出てきてたんだよな、ギリアムは日本マンガマニアの草分けでもあるのですな。まとまりなくなってきたので終わり。

2005年11月30日◆下品に至る病

男なら誰でも一度はハマる下品病。これにかかると下ネタばかり浮かんで仕事も勉強も手につかない。目に入るもの耳に聞こえるもの全てがシモに変換されるという異常事態に、自覚症状カケラもないから聞かされる側はたまらない。病だ。死に至る病だ。キュルケゴールも気がつくまい。キュルケゴールて誰。ラーメンクイスギでストマクがエイクだ。フツーに打ったほうがケータイからだとラクだな。

2005年11月28日◆宿の予約日まちがえる

もう無気力。旅先ニート状態(なんじゃそりゃ)だだ広い特別室になんとか入れてもろて転がりながら今。京都あやしげスポット巡りも気力なし。またこんどだ。今はあんましあやしげなものしょいこんだらヤバそーだわ。班女塚もまたこんどだー。とにかく無事かえるだ。 しぬ。この体力じゃあと5年で老衰でしぬ。談山神社のカチワリ祈願札に「ボーナス」と書いて納めたバカはどいつだ!洒落なってねーぞ!「激痩せ」書くのもどーかとおもうが。

2005年11月23日◆12時間眠る

シャワーも浴びずに。SW3のDVD見ながら。 しかしSWはやっぱ劇場で見ないと、画面が小さすぎて細かい動きとか涙の流れる痕とかさっぱり見えない・・・ 何度も見ないと理解できない部分が多いと思ったけど、逆にテレビ画面じゃわかんないな、という部分のほうが多い。それにしても残酷な話だ・・ルーカスくらい大物じゃないと今の御時勢撮らせてくれないだろうな。よく腕切れるわー。そのせいかバラバラ殺人の夢を見た。下の歯を全部抜かれて頭を殴られまくって撲殺されたおっさんの夢。SWをそうとるか俺の脳は・・・

2005年11月20日◆で、あんたはどっち派なの?

どんないかなる集団にも組しない。派閥なんて関係ない。

仕事以外ではね。

そんな気分でここ数年を過ごしている。「オナカマ」関係に浸ってしまったら進歩が無くなる。むろん相手にもよるんだけど、じっさいトシを経るにつれそういうお仲間ってのはグダグダになって消えちまうのが常なわけで、あるいは続いたとしても、はたから見てると何で群れてんのこのきもい集団、てなれあいな感じになってまう。だからオケもやめたし紆余曲折ありながら十六年続いたカルテットも終わった(こっちは終えたんじゃなくてね)。

だってプロめざすでもなしただ練習して発表するだけで譜面こなすだけじゃ面白くねえ。ついでに言うなら自分の思う音思う音楽を表現するのに100人という人数は多すぎるし通らない。4人でさえ辛い(辛い要求することも辛い要求されるのも4人ではきつい)。カルテットはバンドにちょっと似てる。たぶんバンドといっしょでもっとオヤジになったら誰か再結成とかいいだすのだ。俺は絶対無い。やらないにょ(キモ

まそれだけじゃなくてネットなんてしょっちゅう離合集散なわけで、逆に1年以上同じ面子でうだうだ粘着交流しているのがきもく思えてしまう。変化の早いこの電脳社会で1年も発展性の無いギロン関係を煮詰まってるのに続けてるだと?冗談じゃない。そんな暇じゃない。たとえ携帯でどこでもいつでもたいていのことはできるとしても、時間が24時間しかないことには変わりは無いのだ。

たとえば英語でブログつけてみたりもするわけだが、この広い世界でリピーターって二人しかいなかったりする(まだ一週間たたないけど)。そんなもんだ。むしろ、そんなもんであることに健全性を感じる。こっちも異様な数のHNとページを持ってネットに繋いで十数年になる、だからそれぞれのHNとページの持つ属性に従って、それぞれの心理的コミュニティの人間と接点を持っているから、その程度じゃないと相手しきれない。中には少なくない人数来るページもあるけど、交流は少なくともこちらから持とうとは思わない。トラバは追わない。関係性は薄いままでいいのだ。

実際会って会話してどうこうであれば交流は深まるけど、ネットだけのつきあいってのの目的は、私にとってはまさにSNS(SNSはそもそもリアル世界での交流会に源流がある)の思想と同じ「薄い人間関係」の構築にある。

でもリアル世界での話し、「薄い人間関係」こそ友人関係を長く続ける秘訣であり、そういう関係の人間にかぎっていざというときに頼りになったりする。不思議だけど、べったり関係に陥った連中って男女問わず、逃げ足早い。こっちも逃げるからね。そして二度と会わなかったりする。特に弱さで連帯した連中ほど逃げ足の速い者はいない。弱さでくっついてるやつなンて、もっと強いやつを見つけたら迷わずそっちへ行くからだ(前にも書いたな)。適度な距離感を保ちながら巧く関係を築く、これこそが世界を広げる。

バーチャな関係の人と会った経験が私は一度も無い。だが時が来たらリアルにシフトする人間関係もあるのだろう。今はただ、このぐらいの距離感か、というかんじで測りながら、いろんなコミュニティに顔を出したり引っ込めたりしてる最中なのだ。もなかじゃないよ。

2005年11月20日◆ひとぎらひ

ホスト番組花ざかりである。いいとこわるいとこ余りにあからさまでほんとなのかよと思わせるとこ沢山だけど、頑張ってんなあ、接客業ってこーいう表裏明快なプロフェッショナルな人間たちだけができる特殊技能なんだよ、てかんじだけはかんじた。

やっとこの世界もほんとの男女平等になったってわけだな、とも。

昔のサパークラブとかちょっと昔の出張ホストも昔のハナシ、歌舞伎町ホストも銀座のクラブ姐さん並に一流の接客業者として確立したってわけだ。少なくとも表面上、じつに清々しくわかりやすい奴らで好感持たなかったて言うのは無理がある。スーフリみたいなアホガキ連中とはダンチだ。なんにもしないでうだうだ何年もアタマ下げ続けるよりこいつらみたいにハタチそこそこで毎晩死ぬほど接客してしまくって成り上がってやろうという気持ちも伴ってプロになってゆく、そんな道選んだほうが余程体育会系で雄らしいよな、とおもう自分がいる。

こいつらにピンクのドンペリ何本も開けられて破産したりする女も今や沢山いるんだろーが、逆にオトコの世界では大昔からそんなやからシシ累々、晴れて男女平等。結構じゃないか。おかねはだいじだよー。

それがオトナだ。

ところで明日銀座に行く。クラブじゃないよ

識らん人と会う。

メンドクセエ。

2005年11月19日◆京都へ行く準備はできた

ビジュアル系と呼ばれて久しい僕であるが、やっと落ち着いてきたので京都旅行の予定を詰めた。結局西山に行くことにした。長岡京は初めて行く。長岡チックな京気分を楽しもうと思う。ところで明日はちゃんと料理をして食事する。一週間むちゃくちゃな食生活で思わず「アメマー!!」と叫びそうになるくらいだったがキーホルダーの在庫はまだあるのだろうか。ところでタモリってサングラス外したところをもう何十年も見ていない気がする。実はブルーアイドタモリなんじゃないかと思う今日このごろ、いかがおすごしでしょうか。寒さがしんしんと積もってきて気分はもう2月です。さて、今日は一日研修でブログとか更新できなかった。ニュースブログの異常なアクセス数がブキミだ、また一日700ユニーク近くいった。更新しなければ減るだろう。埼京線乗ってないなあ。どうしよう。明日は一日寝よう。いや料理だ。今日うっすーい味のボンゴレ食ったから明日はタイカレーでも作るか。緑だ。緑のおばさんって最近見ない。どうしてるんだろう。緑星に帰ったんだろうか。それともあの真緑色のぬらぬらしたおばさんは宇宙人だったのか。フリスビー!さて、劇団ひとりってなんでひとりなんだろう。コンビだったら劇団コンビなんだろうか。100人だったら劇団ハンドレッドなんだろうか。どんどん普通になっていくじゃないか。テンハンドレッドとかいったらもう豪華な感じがするぞ、叶姉妹が寄ってきそうだ。糞にたかる金バエのように。毒舌!さて、何を書くんだったか思い出そうとしながら書いているうちにだんだんわけがわからなくなってきた。そうそう、最近(ここ一日)ヒトコママンガにハマったのでコミュ作る。承認制。誰も来ないでほしい。だいたい孤独が好きだってのになんで人のたくさんいるところに行く機会が多いんだ。渋谷はあいかわらず膝までズリおろしたデニムはいてる生意気なガキとかいまどき長白弛み靴下はいてる女学生とか散在してます。もう時代の先端でもなんでもないや、たんなるアジアだ。ブリッツポップ好きな私はブリッツのミュージシャンたちがけっこう渋谷好きって思ってたけど、最近はあんまし聞かないなそういうセリフ。むしろ変なガイジンがアキハバラに大量に存在するのが怖い。なんか電車男みたいな白人がたくさんいるってのもすごいな。あっちのがアジアか。つか日本てアジアか。

思い出せない。

2005年11月16日◆孤独への郷愁

俺だけ残してこの世がみんな無くなってしまえばいいのに。

乱歩じゃないよ。

2005年11月16日◆DOWN DOWN DOWN DOWN DANCE!


回復してたなーやっぱ音響の問題もあったのか。武道館どうよ?今日はよかった。ちゃんと聞こえた。舞台向かって左ばっか行くのは右利きの悪いとこだな。踊れるなージェイ。でもジェイだけがJAMIじゃねーよな。キーボードの彼はいいよ。それにしても年齢層高!外人多!

2005年11月15日◆DEEPERUNDERGROUND


に行ってきた。隣空いてた。そのせいか変に雰囲気が落ち着いてて涼しかった。やっぱジェイ体調悪そうだった。最初のマイクトラブルから前半かなり声小さくて聞こえない・・・でもバンドとしていいかんじ。とくに昨日愛想よく握手してくれたキーボードのカレはいいねえ。変化のないひたすらデスコチューンで疲れたけど、よかった。ただやっぱり最新アルバムの曲がいいよ。ベストアルバムみたいな曲だらけでちょっと受け狙いすぎ。古い曲はもう今のノリじゃないというか。なんか二階空いてたけど、こーいう選曲ならもっと小さいハコでやってみんなで踊りまくるのがいいよ。明日も微妙な席なんだよなあ。

2005年11月2日◆「夢」

こんな夢を見た。

私は祖母が危篤という情報を聞いて暗い家に待機していた。見知らぬ黒い日本家屋だった。何故か私は天井の隅から狭い座敷を見下ろしていた。祖母は前日まで矍鑠として田舎道を歩いていたがもうだめだということであった。しかしそのうち死の知らせのないまま、死んだ、ということになっていた。長い時間がただ過ぎていった。他に二名の人間がいたが、このあたりは別の夢が混在していて定かではない、ただ、通夜ということではないが結局その屋の、その寝間に寝ることになった。他の二人のうち一人は位が高いようであった。部屋の半分を黒檀のようなつやつやした木の床が占めていて、余った部分に二つ折りにした綿布団をふたつ押し込めて、我々は綿布団に、位の高い人は黒檀に床をとった。蒲団を延べる前、かれは塩のようなものを床の周囲に撒いてこういった。

「こうしないと、来てしまうからね」

口でそう言ったのかどうか覚えていない。そういうふうな雰囲気で黙々と結界をはると、蒲団を落とした。塩は巻き上がるふうでもなく、われわれは残る蒲団を選ぼうとした。風の音もしない古い日本屋で、しかし恐らくその四畳間がその家のすべてで、祖母がくるのかどうかも定かではない。
 
・・・私の祖母はじっさいには4年半前になくなっている。老人病院で、痴呆症状の末でのことであり、10年来の記憶に矍鑠とした姿はない。もっともそれ以前にはタバコをふかし日本家屋になど住まない人であった。

祖母の夢を見るのはこれが初めてである。13年前に死んだ飼い鳥の夢を定期的に・・・1年に2度くらい・・・「同じような感じ」で見る。年々姿がぼやけてゆく、でもまだ定期的に夢に出る。しかし祖母の死んだ後、確かにショックを受けたというのに、夢を見たことは一度としてなかった。何故だろう。うちの家系は宗教感覚が変で、3、4つが入り乱れている。その母方の祖母というのは仏教であった(私は一応カトリックであるが無宗教に近い)。なのに盆など仏教的な儀礼の日に墓に参ったためしがない。今は別に仏教的な時期ではないが、何かあるのだろうか。

守護霊?そんなもんいるのかいな。そういう言説をした直後であったから、エハラ的には、見させられたのかもしれない。現実的には心理的要因によるものだとは思うけれど、起きても覚えている夢というのは最近なかったので・・・しかも上記の夢、全く同じ内容が三回繰り返されたのである・・・ここに書き留めておくことにした。最近勘が冴える。この勘が変に働かないことを祈る。

ここに書いたかどうか覚えていないが、祖母はどんなに痴呆症状が進んでも、礼儀を守る人だった。訪れた私が誰なのかわからなくても、優しく応対しようとし、必ず駅まで送りにきてくれた・・・長い長い田舎道を。まともに話ができる最後のころ病院を訪なったときも、看護婦に止められるのも聞かず何度も立ち上がり、遂に病室の入り口まで管を引きずり送ってくれた。名残惜しそうに行くのを止めた・・・誰かもわかっていないのに。今思うと毎度髪も直し化粧すらしていたのではないかと思う。

・・・まったくの最後、そんな祖母は見る影も無かった。まるで枯れ木のようであった。横たわり、意識なく、ただその手だけが大きく、暖かかった。これがもうまもなく冷たくなるのだ。帰り、春のうららのあぜ道を、マーラーの「大いなる喜びへの賛歌」・・・天国へ昇るものの歌を聞きながら呆然と歩いているとき、ふと、背後に気配を感じた。振り返らなくてもわかった、でも私は振り返った。腰の曲がった様子で遠くの道端に立ち、もうそれ以上は動かないけれども、ただ微笑んでいた。・・・ミイラのようなあの苦しい体は離れて、もう自由なんだ。私の心は既に平穏であったが、更に穏やかになるのを感じた。春陽のたなびき、陽炎の波間に消え去るまでその姿を振り返り振り返りし、そのまま二駅を歩いた。・・・

葬儀の日、棺を覗くとそこにはミイラのような顔はなかった。矍鑠とした頃の祖母の、明治のモダンガールのはっきりした顔だちがあった。最後まで化粧で女は変わるものだな、と皮肉気味に語ったものだが、心根には深い感傷として残った。旅立ちはあっさりと数時間で終わった。骨は赤みをおびてまだ生のよすがを残していた。そのピンク色の骨を見ても、しかし、

私は昨晩まで一度も夢に見たことはなかったのだった。

2005年10月29日◆多摩川で野蒜を焼き

焚火で温んだ酒を喰らう。 博浪会の冊子をめくっていると昭和16年2月早々追悼の二冊のなかに夢声の万感のいち文があった。雑草は何でも味噌で喰えるといって其会も開いていた貢太郎氏、酒に生き酒でびんぼうをし酒に死んだ故人への随想の形をとった最大の賛辞である。

万感、というのはただ想いでをつづり一言「それもついに空しである」で締めてある。莫と、語ることがないとして独自の風格があるとだけ置いた菊地寛とは格段の言外の想である。我が祖父や父によれば貢太郎の名は前に私の書いたような大衆小説家なんかではない、立派な文筆家で通っていたようである(同郷の者の贔屓目というわけではない)。だから菊地の態度には多分に意識的なものがあるように私には感じられた。自らが認めてやった人物であるにもかかわらず対抗するかのような私誌(じっさいは周辺弟子同人のものであるが)を立ち上げた男、野人と号された文壇の異彩児への圧倒の意さえ感じられた。反骨の士の燭の消えるがごとき哀しき枯淡の境を思うと無粋な編者の、権威菊地になど頭文を能わせる粋のなさに胆落つるところもある。接いでに言うならば氏独特の面白いあて字は癖のようなもので、源は中国小説にあるものだそうだ。漢籍への造詣も当代文士に比類無きものであった。

門前で声をかけ布団の中から反ってきた返事で容態を確かめる、高知新聞社三村氏の追憶、去世の三日前「何ちやあぢやなかつたきにのう」とぽつりと遺していったというが、確かに昏睡のとき流れた一すじの涙の拭われたあと、円満無比の相好の死に顔は牡丹の篭火を架かげた上臈に手をとり連れ逝かるる氏らしい解脱の相であったと思いたい。なき崩れるつま子らにはすまなそうな様子をして。旧友は口を揃えて何の心のこりもなかった筈だと言ったそうだ。三村氏は心のこりどころか、あの世へお釣り銭まで持っていった男だと口を添えた。浦戸の湾には厳かに「じゃん」が響いたことだろう。

泰平の時代のことを想う人もいた。この雑誌も末期は戦意高揚広告が目立つ。吐血後静養として死の前年後にした東京の屋だが、「東京は旅ぢや」「もう東京はさつぱり思い切った。むづかしい物は書かいでも、すきな随筆などを書いて、小遣いを取ればよい。子供達も、もう一人前になつて、手がかからんきにのう」の言に常よりの熱い郷里愛、推して知るべしだろう。晩年は名随筆家として知られた氏が「坂本龍馬を書くために、郷里で材料を集めている。田舎に居ると生活費もかからぬから、ゆつくり長編が書ける」という死去前の池上会での台詞、旋風時代は過ぎ去らず未だ伝記小説へ意欲を燃やしていたのだなとも思う。高知県立図書館長の想い出にも龍馬の話が出てくる。郷里の志士伝への思いはえんえんとしてあった。死の数日前まで娘に大量の資料筆写を持ってこさせていたという。

ひとによりまた印象も違うのだなと夥しい追悼文をつら読みながら、その例の少なくないことにも思いを巡らせた。最後の会の場で、もう好きな瀧嵐も司牡丹も呑めない貢太郎翁に気付いた弟子がいた。「こちらもうつかり馬鹿話にふけつているうちに、気がつくと、先生は広い座敷の向ふの隅の、座布団を積み重ねたところで、横になつて、しんと、こちらを見てをられた。その距離に、私はと胸を突かれるやうであつた。ーあの部屋隅の座布団の山を思ふと、たまらなくなる。」

それは余りに淋しいではないか。我が育てた稲穂の黄金の揺れるさまを見守るだけで、誰にも顧みられることのない、モウただの一本の野蒜なのである。死んでからでは、遅い。

・・・その野蒜が枯れはて土に帰らうところで抜いて喰う酔狂らもいる。ここ数年の再評価はしかし昭和大衆伝奇小説家としての氏に寄せるものでしかない。もし読まれていないのならばこの雑誌の追悼号を読まれるがよい。日吉早苗氏の「幻想の桃葉先生」は名筆である。ここに矍鑠たる明治の幻想文学、ヘルン先生らの流れの末と、それを確と伝えられた貢太郎氏の偉大さを垣間見られよう。そして山崎海平氏の採った語録(どれも至言である)に浅薄な大衆作家などではけしてなかったことも窺い知ることができるだろう。

61の誕生日、雛祭りの日にレインボーグリルで行われた追悼会では、発起人尾崎士郎氏のもと菊地寛、井伏鱒二、吉川英治らより追憶の説が語られた。太宰も胡堂も犀星も梢風もいた。中央公論から選集が発行の旨が書き添えられている。「林有造の伝」が完成していながら生前出版至らなかった無念を譲治氏がつづっている。

静養のため帰郷して後目黒の家に住んだ義理子は氏を奇人酒仙と呼びならわす世間には知られえなかった一面を書き添えている。「父はもはや、疲れきっていたのである。ものを書くことにも一向気乗りがしなかったやうである。「土佐へ帰って、何もせんでいて魚釣りをして暮らしたい」と、死のニ、三年ぐらい前から家族に語っていたという。が、その土佐の生れ在所に帰っても、とうとう父は念願の魚釣りもやらずに逝ってしまった。父にとっては、おそらく、坂本龍馬傳の完成をみなかったことよりも、もっとそれは残念なことであったろう。」遠山氏は三年前の結婚の許しがあまりに簡単だったことを妻である長女に話すと、「父も昔の父とちがって・・・」気が弱くなってきた、と泣いたとも書いている。

最後の博浪への寄稿は15年8月五巻九号のニページである。帰郷直前といったところか。事物をならべただけのものではあるが流石随筆の逸話には事欠かず、臭いロシア人詩人の話のあとに日新聞という出版社ででくわしたハーフの作家志望者のことが書いてある。原稿が旨く面白いから中央公論の瀧田氏のところへ連れていったところ連載が決まり、非常に喜んで晩餐会を催すも滅多に早く来たこともなし、食事は済ましてきたというふうだから瀧田氏ともども応援を止めた。しかしそういうものだと流すところに依然として風流粋がある。

ところでハーフの若者は逆に氏をこううつしている。「布袋様のやうだつたが、これが田中貢太郎だつた。その時貢太郎が俺の小説を見て、旨いゝとつゞけ様に赤い舌をべろゝと二度出した。」ああ、貢太郎はこうでなくては。

~博浪沙・田中貢太郎追悼号を読んで(某コミュニティより転載)~

2005年10月17日

◆諸事を厳密に突き詰めていこうとすると必ず限界が来る。乗り越えないと新しい世界は見えてこないが、そういう局面において片手間にしか取り組めないのであれば、乗り越えられるはずもない。学問とか研究とかって本来そういうものであることからして、寧ろ趣味として楽しんでいく気なら、どっかでてきとうに流してしまうべきだろうと思っている。私のいーかげんで曖昧なスタンスに離れていったかたも多々いらっしゃるこのサイトだが、金曜日はスケプティカルな立場から意地悪をちょっと仕掛けてみた。これでまた離れるんだろうなあ。だが、だが。今日、別のかたから別の場で、同じような意地悪を仕掛けられた(笑)化かし化かされあい、パラノーマル業界って、こんな人がたくさんいる世界なのだ。

2005年10月06日

◆一日の時間は限られている。ネットをやる時間はケータイのフルブラウザのおかげで確保できているが、それでも限界はある。サイト更新まで手が廻らない。ま、もうこれ以上減ることもないだろうからてきとーにいこう。それにしてもジャミロクワイ・ファンクラブの力のなさといったら・・・(苦笑

2005年10月03日

◆ジャミロクワイ・ファンクラブ限定イベント開催決定。さっそくチケ取る。前回みたいな余ってイープラスに流れるようなことのないことを祈る。ちょっと溜飲下がる。

2005年10月01日

◆ジャミロクワイ・ファンクラブからチケットが来たが・・・ウドーの先行と大してかわらんやんか!つかむこうでがんばったほうがいい席とれたっちゅーねん!・・・ま、しゃーないです。