Thursday, December 15, 2005

2005年11月2日◆「夢」

こんな夢を見た。

私は祖母が危篤という情報を聞いて暗い家に待機していた。見知らぬ黒い日本家屋だった。何故か私は天井の隅から狭い座敷を見下ろしていた。祖母は前日まで矍鑠として田舎道を歩いていたがもうだめだということであった。しかしそのうち死の知らせのないまま、死んだ、ということになっていた。長い時間がただ過ぎていった。他に二名の人間がいたが、このあたりは別の夢が混在していて定かではない、ただ、通夜ということではないが結局その屋の、その寝間に寝ることになった。他の二人のうち一人は位が高いようであった。部屋の半分を黒檀のようなつやつやした木の床が占めていて、余った部分に二つ折りにした綿布団をふたつ押し込めて、我々は綿布団に、位の高い人は黒檀に床をとった。蒲団を延べる前、かれは塩のようなものを床の周囲に撒いてこういった。

「こうしないと、来てしまうからね」

口でそう言ったのかどうか覚えていない。そういうふうな雰囲気で黙々と結界をはると、蒲団を落とした。塩は巻き上がるふうでもなく、われわれは残る蒲団を選ぼうとした。風の音もしない古い日本屋で、しかし恐らくその四畳間がその家のすべてで、祖母がくるのかどうかも定かではない。
 
・・・私の祖母はじっさいには4年半前になくなっている。老人病院で、痴呆症状の末でのことであり、10年来の記憶に矍鑠とした姿はない。もっともそれ以前にはタバコをふかし日本家屋になど住まない人であった。

祖母の夢を見るのはこれが初めてである。13年前に死んだ飼い鳥の夢を定期的に・・・1年に2度くらい・・・「同じような感じ」で見る。年々姿がぼやけてゆく、でもまだ定期的に夢に出る。しかし祖母の死んだ後、確かにショックを受けたというのに、夢を見たことは一度としてなかった。何故だろう。うちの家系は宗教感覚が変で、3、4つが入り乱れている。その母方の祖母というのは仏教であった(私は一応カトリックであるが無宗教に近い)。なのに盆など仏教的な儀礼の日に墓に参ったためしがない。今は別に仏教的な時期ではないが、何かあるのだろうか。

守護霊?そんなもんいるのかいな。そういう言説をした直後であったから、エハラ的には、見させられたのかもしれない。現実的には心理的要因によるものだとは思うけれど、起きても覚えている夢というのは最近なかったので・・・しかも上記の夢、全く同じ内容が三回繰り返されたのである・・・ここに書き留めておくことにした。最近勘が冴える。この勘が変に働かないことを祈る。

ここに書いたかどうか覚えていないが、祖母はどんなに痴呆症状が進んでも、礼儀を守る人だった。訪れた私が誰なのかわからなくても、優しく応対しようとし、必ず駅まで送りにきてくれた・・・長い長い田舎道を。まともに話ができる最後のころ病院を訪なったときも、看護婦に止められるのも聞かず何度も立ち上がり、遂に病室の入り口まで管を引きずり送ってくれた。名残惜しそうに行くのを止めた・・・誰かもわかっていないのに。今思うと毎度髪も直し化粧すらしていたのではないかと思う。

・・・まったくの最後、そんな祖母は見る影も無かった。まるで枯れ木のようであった。横たわり、意識なく、ただその手だけが大きく、暖かかった。これがもうまもなく冷たくなるのだ。帰り、春のうららのあぜ道を、マーラーの「大いなる喜びへの賛歌」・・・天国へ昇るものの歌を聞きながら呆然と歩いているとき、ふと、背後に気配を感じた。振り返らなくてもわかった、でも私は振り返った。腰の曲がった様子で遠くの道端に立ち、もうそれ以上は動かないけれども、ただ微笑んでいた。・・・ミイラのようなあの苦しい体は離れて、もう自由なんだ。私の心は既に平穏であったが、更に穏やかになるのを感じた。春陽のたなびき、陽炎の波間に消え去るまでその姿を振り返り振り返りし、そのまま二駅を歩いた。・・・

葬儀の日、棺を覗くとそこにはミイラのような顔はなかった。矍鑠とした頃の祖母の、明治のモダンガールのはっきりした顔だちがあった。最後まで化粧で女は変わるものだな、と皮肉気味に語ったものだが、心根には深い感傷として残った。旅立ちはあっさりと数時間で終わった。骨は赤みをおびてまだ生のよすがを残していた。そのピンク色の骨を見ても、しかし、

私は昨晩まで一度も夢に見たことはなかったのだった。

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