醒めていた。
例年のことでありながら今年は何故かまったくの喜びも感傷もなく、ただ至極物質的な感性のままに天井のオジーブを見上げていた。祭壇の後ろに掲げられた簡素な十字架も、単なる木の彫像であった。長年の思い出の染みた壁も椅子も床も、新しく作られた神秘的なマリアの泉も、ただ綺麗で写真ばえのする素材としか思えなかった。
ミサが始まった。私はたんたんと歌いながら、寒い席を一覧していた。オルガンの音が宙に消え入る。座るように促され、皆とともに説教を聞き始める。そして私はにわかにまどろみはじめた。もう、私はキリスト教者ではないのかもしれない。それはさびしくもなんともなく、ただ退屈であった。私は、ゆらゆらと揺れていたらしい。
ゆらゆらと揺れる景色と、妙に安心しきった私のうつろ目に、奇怪なものがうつった。
それは降誕節の歌をうたっているときであった(私は長く音楽に傾倒していたせいか弾いたり歌ったりしながら眠ることがある)、モウ「落ちて」しまいそうな私の横を、巨大な白いものが通り過ぎたのである。
それは教会中央の緋毛氈の上をまっすぐ祭壇のほうへと向かっていた。ものすごく巨大な、白い人であった。体積だけを計算したら、通常の人の何十倍もあるだろうか。生白いローブをまとい、厚いフードを深く被って背を丸め、気がつくとぬっぬっと「歩いて」いたのである。背後からしか見えなかったので顔もなにもわからない。その衣装は簡素で、丁度司祭のぞろっとしたお偉い服に生活感を垂らしたような、しかしなんとなくもっと良いものであった。胸から下は前の人の頭で見えなかったが、たぶん緋毛氈の下にあったはずである、なにせものすごくでかかったのに、オジーブの木枠に頭を擦らなかったのだから。
私はぎくっと目が醒めた。
覚めた。何事もなく空疎なミサの次第がつづいていた。老いた司祭はのんびりと祭壇の後ろで手を広げている。すべては何十年も見てきた決まりごとであり、わかりきったことであり、やはりここにあるものはすべて「物質」にしか見えず、昨年までの神秘的な感覚は失われていた。居並ぶ少年の茶色いローブの下から覗くデニムの裾が拍車をかけた。でも私は別の意味で覚めていた。いや、至極奇妙なものを見た、それだけのことで、あとの1時間はまんじりともせず、呆然と教会の空気を吸っていたのである。
これは幻覚であろう。でも、幻覚は時としてそうでないものとコラボをする。あれは何だったのか、「誰」だったのか?数十年、クリスマスミサに参加していて初めて見た、何か神秘的なもの、この場所で何十年も祈ってきた人々の思いの集った、精霊だったのかもしれない。
Subscribe to:
Post Comments (Atom)
No comments:
Post a Comment