Saturday, December 17, 2005

死が固められてゆくことに対する嫌悪的雑感

「恋のから騒ぎ」でぜんぜん笑えなくなった私はスマステ派だなー(今日は「受けたい授業」からの流れでこっちを見てしまってる。

養老さんも悪趣味な気がしますよ。テレビで人体全身標本出すのって、前も話題になったけど(今回も局部は隠してましたな)、やっぱり養老さんがらみだった気がする。今「きがす」でうっかり変換したら「希ガス」て出た。大嫌いなネトヲタ用語。で、養老さんて奇形児プラスティネーション標本を鞄に入れて講演会なんかに持ち歩いてるんですってね。まさかそんな世の中がくるかいな、って思ってたらほんとにそうなってきた昨今の日本、たとえば絵に描いたような拝金主義とか、ほんとにゲームリセット感覚で生命にせっする子供のみならず大人たち、しかし思うのだが、「100円ショップで小さいナイフ買って、首のここ切ったら死ぬんだよ。でも、100円でその命を取り戻せるかい?」余りに当たり前な禅問答で「そういう言い回しもあるか」程度に思ったけど、ふと思ったのだ。これで「はっ、と気がついた」なんて人が、ほんとに いるのかもしれない。

だからこうしてテレビで殺人法について公言しているのか。

怖い世の中だ。

社会的影響力の大きいこの人のエキセントリックな言動文筆(口述筆記?)活動に正直、余りいい感じがしていなかったのだけれども、「いい感じがしない」というそもそもの感覚が麻痺している人が多いからこそ、

殺しちゃいけない。

死は取り戻せない(1分1秒でさえ時間をさかのぼることができないのと同じに)。

なんて当たり前のことをいろんな言い方とインパクトある表現方法で訴えているのだろうか。

医師医学者というのは微妙なところで、「壁に耳あり」なんて言って検体の切断した外耳を壁に貼り付けて退学になった(はずはないのだがそういう噂に発展している)医学生の噺なんてのは、或る程度感覚を麻痺させないとできない「とうてい常人の感覚ではできない汚く辛いことを仕事としてやっていく特殊な職種」ならではの側面を象徴していて、これは確かに仕方ない側面がある(だからこそ多少宗教的なものも含めモラル教育を「再度」施す必要性が言われるようになってきたわけだが)。だが別に人の生き死にを職業的に請け負わなければならないわけではない一般人にそんな麻痺感なんていらないのだ。それが、恐らく情報過多と過剰に過激化する娯楽物資によって、特に暇で好奇心旺盛な子供の感覚を鈍らせているのか?

正常な感覚の再喚起に・・・しかし「芸術的な」プラスティネーション標本は役立っているのだろうか? 「人体の神秘」展がらみで昔も書いたことだが(胎児食パフォーマンスや死体キメラアートの話書いたのってここだよね)、そういう扱い方って、寧ろ逆に好奇心を煽るだけなのではないか?「死者の尊厳」を「アーティスティックで美しい死体」という形で表現する、というのは形而的すぎて、「見た目の表面しか捉えず読みも聞きもしない」子供の類には全く伝わらないのではないか?私は一時期この世界によく触れていたが、最終的な判断として、

きもちわるい。

というところに落ち着いた。原初的な「(自他共に)死を忌む」感覚に立ち戻ったのであり、決して「死者が気持ち悪い」という感覚を得たわけではない。関連書籍のたぐいもすべて生ゴミとして出したし(ゴミ屋さんごめん)、一切見に行くこともなく、写真のたぐいすら嫌う。だからといって養老さんのものは超速読で読んだりはしているけれども、前に書いたような本職の人が自己防衛的に持っている「麻痺する能力」が前提になっているような気がして、ちょっとぞわぞわするのである。 伊集院さんがまじめに自分も死んだらプラスティネーション標本・・・番組では現代のミイラといっていたがそれは適切な表現なのか?それこそ主観的に時間を止める行為で至極利己的だ・・・になりたいと言っていた。この人は非常にまじめで深く考える人なので、多分軽々しく言っているのではなく純粋に (サブカル擁護の人でもあるようなので)そう思ったのだろう。

私はもし死後こういう施術を施されるとしたら、キリスト教的な天国(か煉獄かしらんが)にさっさと行ってしまいたい。体液がすべて樹脂と置換されるさま、食肉解体のように機械的に切断され皮を剥がれて固められていく(「他者の手によって人工的に」だ)さまを思うだけで身の毛がよだつし、それこそ死者の尊厳を損なっている感覚がしてならない。

形だけを残すことに何の意味があるのか?

医学標本としてでなく「アート」として見世物になるということに、これは自己の問題としてだけではないと再度断っておくが、「友人の首をホルマリン標本にした少年」(最近の事件を想起されるかもしれないがこれは戦後くらいの事件だった)の感覚に似たものを感じて非常に怖いのだ。架空の話だが「羊たちの沈黙」のレクターを思い出して欲しい、そういう感覚に通じてはいないか。「麻痺」ですらなく、もとより「当然」なのである、そういう感覚が育ってしまうのではないか、ある種の人間には。子供には。

火葬ですら私はぞわぞわする人なので、できれば風葬や土葬にしてほしい。人間らしい尊厳をもっとも取り入れた自然な死への対峙の仕方だと思う。また九相図絵巻のような「かえりゆくもの(物理的には変わりゆくものだが)」を見ることこそ、ほんとうの「死への感覚」を育てるのだと思う。こうなること、こうさせてしまうことの恐怖を植えつけることが、いちばん「効く」と思うんだけどね。

ただこれも逆にある種の人々・・・生来の本質的なサディスト・・・に変な「煽り」を与えてしまうかもしれない。「死んでしまったもの」へ接することよりも、死を前に死から逃れようとする人の真実の姿に接すること、死病で苦しみもだえる人を介護させることで身につくのかもしれない。どうやったって「脳の根元から違う人々」は救えないわけで、全員救うことは無理だとしても、他者に害をあたえるたぐいの人々を煽るようなことはあってはならないし、そういう人々は法の力で力ずくで押さえつけるべきだが。 とりとめもなくなってしまった。こんなマジな話になるとは。 言いたかったことはこれだけ。

養老さん、同じネタの使いまわしはやめようよ。

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