ブンガクはキライだ。
・・・と書き出す時点で文学を肯定しているようだが、文学なんてもんは存在しない。そこには文字列とフォーマットだけがある。器に過ぎないものに、何を盛るか、それがたまたま「人を怖がらせる」というものであれば、それらしいものを見繕ってきて、見栄えよく飾るだけで、たいていの発信者はそれがブンガクだとさけぶ。器は音の形をしているかもしれない。色彩と描線によって構成されているかもしれない。そこに面白さとかゲイジュツセイとかを求めるのであれば、盛られているものを食べてみないとわからない。見栄えだけ求められていると感じること、それは現代日本の薄氷のような文化形態を肯定しているだけだ。マニアは集まれど、普通の人は集まらない。
まるで水木ファンクラブのような「怪」をはじめとして、好きだった怪奇系雑誌に次々と裏切られるにつけ、「怪談はキライだ」と声高に叫びたくなってくる。オウム後のぐつぐつとした潜伏期間をへてオカルトが解禁になり、堰を切ったかのようにジャパニーズホラーとかいう映画や小説が量産されるようになった現代、何故かそれがどんどんと、味のないものになっていくように思えて仕方ない。音楽については学生時代から言ってきたことだが、技術技巧が「言いたいこと(言うべきこと)」を上回っている状態をよしとするような、中身を求めない風潮はどうかと思うのだ。
ホラーはキライ、だいたい作り物や脳内ものに何も魅力を感じない人間なのだからしょうがない。私は見栄えに興味は無い。純粋な好奇心とイマジネーションを喚起する要素として怪奇ものが適切だから関心を寄せているだけなので、写真だとか証拠だとか、ましてや恐怖を煽るギミックや技術的なものに全く左右されない人間である。
「幽」にはガッカリした。正確には、やっと本音が出てきたか、という部分があったのである。それはよりにもよってオカルトを素材としてしか見ていない・・・否定派と言ってもいい京極、ブンガクとしてしかとらえていない東、そして「表向きは実録」怪談作家として名をなした木原氏による鼎談である。ここにはそれぞれが歩み寄りもせずそれぞれのすれ違いが変な具合に露呈している。だが一致している点がある。
みんな、ほんとうのことはどうでもいいのだ。
私は本当のことが知りたい。毎晩ドアノブを回す者が誰なのか知りたい。一晩中部屋をうろつく影のことが知りたい。病気でもないのに寝込むようになった原因を知りたい。それはオカルトでもなんでもいいのだ、理由が知りたいだけだ。その味の正体が知りたいのだ。
木原氏が共著した新耳袋が十数年前に上梓されたさい、その表採方法に民俗学的な主観を入れない(ように見せかけて恣意的に巧みに配置した)羅列手法と江戸話的な随筆手法・・・理由も何もなくただ断章をつらねる・・・が取り入れられ、しかも内容がまだ一般的でなかった都市伝説というものに「突っ込んで」触れていたために、当時本家耳袋などに親しんでいた私は非常に興味を持った。それは一部で話題にはなったが、当時まだ落語的なオチを持つ70年代的怪談が主流だったためすぐ絶版になったように記憶している。バブル崩壊後に復刊され、そこには「敢えて削った話」という確信犯的手法で続巻を期待させる「引き伸ばし」があったせいか、爆発的に売れたのはホラーファンなら誰でも知っていることだ。私の手元にはその版が残っている。同じ話を別な形に編纂して別本に出すというあざとい手法に若干疑問を感じだしながらも、最初の3巻くらいまでは、十分に「新しい」ものとして読むことができた。
だが何か違和感を感じ出して買うのを止めたのはジャパニーズホラーブームの火がつく前だったと思う。結局、70年代的怪談に戻ってしまったような感じがしたのだ。同じ話を引きに引いて続きを買わせる手法、同じような話の連環、ひいては「千手観音の写真」にいたっては辟易していた。この人ははなから確信犯だったのだ。信じちゃいない。「手法」だけなのだ。とても巧みな器だけなのだ。盛られているものは大したもんじゃない。私は現代怪談全般にあふれる「ビジュアル先行」イメージと全く同じ根を持つようにも思った。そのころから殆ど現代怪談ものを読まなくなった。
その木原氏が、言葉を選びながらもしょせん、怪談は創作だと言ってしまっている。京極さんの手にうまくのせられている。しかもこの雑誌、ホラー小説雑誌と実録雑誌の境界線をちょっと高尚な位置で探るという新規性が売りだったのに、ここで結局宣言されていることは、「これはホラー雑誌であり、ホラー小説を募集します」ということなのである。表紙の装丁にも辟易とした。余りに現代的だ。
松谷さんのような人を持ってきているし、漫画にかんしては最高クオリティといっていい。だから買うことに躊躇はないのだが、中岡さんやつのださんが散々とりあげた鬼怒川温泉をいまさらK温泉として出してみたり、幽玄の雰囲気があるだけの場所をまるで某スピリチュアリストのように殊更に取り上げて、無理やり怪奇スポットに仕立てている。どうせならギミカルにブブカのような線をいけばいいものを、ブンガクのラインで仕立てようとしているところがまた、露骨に目についてしまうのである。ついに鏡花を出してしまったところなどあきらかに創作文芸におもねっている。次はあるのか?
この雑誌は文芸雑誌である。怪談集だ。
私はブンガクはキライだ。
怪談はキライだ。
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